第二の声の主が冥府の王なのだろうというアテナの聖闘士たちの推察は当たっていたらしい。
そして、その冥府の王が彼のしもべと信じていた者の造反に合っている――らしい。
アテナの聖闘士としては、この機会を逃さず ハーデスを倒したいところだったのだが、敵が声でしか その存在を示してくれないのでは、どう攻撃すればいいのかが わからない。
自分たちは この好機に、ただ黙って為す術もなく冥界の内紛を眺めているしかないのかと、アテナの聖闘士たちが苛立ちかけていた時だった。
何か恐ろしく強大な力がジュデッカの空気を氷より冷たく凍りつかせ、ナイフの刃のように鋭く緊張させ始めたのは。
それまで、ハーデスの声にかき消されてしまったように、その気配を消していた あの小さな声――パンドラが『シュン』と呼んでいた声が、アテナの聖闘士たちに訴えてくる。

「皆さん、ここから逃げて。早く冥界を出てください! 冥府の王ハーデスが この空間を歪め、ここを破壊しようとしている。彼は、この世界を あなた方共々 一瞬で壊してしまうほどの力を持っているんです!」
微弱なのに鋭い声。
その声は、彼が『兄』と呼んでいたパンドラにも、同じことを訴えた。
まるで、涙を帯び哀願するように。

「兄さん、兄さん、瞬さんを失いたくないんでしょう !? 兄さんも彼等と一緒に冥界を出て。僕がハーデスを引きとめるから」
「無理だ、シュン。相手は神なんだ。そんなことをしたら――しようとするだけで、おまえは一瞬でハーデスに消されてしまう」
「無理かどうか、やってみなきゃ わからないよ!」
「シュン……」
「兄さんを守るためなら、僕は何だってするよ!」

パンドラを『兄』と呼ぶ声――ハーデス復活の犠牲になったというパンドラの弟の声――魂。
その小さな力が、彼の必死の訴えにもかかわらず その場を動こうとしない兄に、切なげに、身悶えるように、優しく囁く。
「身体がほしいと思ったこともあった。今だって、本当はそう思ってる。身体を手に入れて、兄さんと二人、普通の人間として生きていけたらどんなにいいだろうって。でも、それは兄さんの心を犠牲にしてまで叶えたい願いじゃないの。瞬さんを失ってまで叶えたい願いじゃないの。兄さん、僕は兄さんにも瞬さんにも幸せでいてほしいんだよ……」
「シュン……」

アテナの聖闘士たちには、パンドラの弟が なぜ肉体のないものとして ここにいるのかはわからなかった。
彼がハーデスの復活に利用されたらしいこと、パンドラが それを恨みに思っていること、そしてパンドラが瞬の身体を利用して弟の復活を試みようとしたらしいこと――は、彼等の やりとりの端々から察することはできたのだが、『シュン』が生きているものなのか死んだ者なのか、他人の身体を使っての復活が本当に可能なことなのかどうかさえ、氷河たちにはわからなかった。
だが、パンドラの弟の声と言葉、その優しい感触だけは、氷河にも 氷河の仲間たちにも 確かなものとして感じ取ることができていた。

まるで瞬がもう一人いるようだと――瞬の心が もう一つあるようだと、氷河は思ったのである。
同じことを、パンドラも思ったのだろう。
そして、彼は、弟の願いを叶えることを決意したようだった。
怒りに歪んでいた顔を 元の端正で静かなそれに戻し、だが緊張感は消さずに、彼は、瞬に早口で告げてきた。
「瞬。ハーデスは、君の身体に己れの魂の器とし、君の身体を使って 地上を死の世界にしようとしているんだ。金のペンダントを持っているだろう。それはハーデスと君を結びつけるものだ。すぐに捨てろ。そして、決して聖衣を その身から離すな。君が アテナの血を受けた聖衣を身に着けている限り、ハーデスは君に手出しができない。ハーデスは、その聖衣を君から奪う“手”として、私を側に置いたのだ。神ならぬ身の人間の私なら、アテナの血のついた聖衣にも触れることができる。ただそのためだけに、ハーデスは私を この冥界で生かしたまま飼っていたのだ――」
「そなたが これほど口数の多い男だとは思っていなかったぞ。愚かな」

それは一瞬の出来事だった。
何が自分たちの目の前で何が起こったのか、アテナの聖闘士たちには すぐには わからなかった。
ハーデスの目的に驚愕している暇もなければ、神といえど 万能ではないのだと考えている暇もなかった。
パンドラの驚くべき告白をハーデスの声が遮ったかと思うと、パンドラが音もなく その場に倒れる。ハーデスがパンドラの周囲の空間を歪め捩じれさせ、そうすることによって生じた何らかの力が 実体のない武器になってパンドラの肺か心臓を攻撃したらしいことに 氷河が気付いたのは、倒れたパンドラの許に駆け寄った瞬が彼の脇に両膝をついた時。
異様に大きく上下しているパンドラの胸の動きを認めた時だった。
瞬を見詰める瞳には尋常でなく強い力がたたえられているというのに、パンドラの声は ひどく かすれ、弱々しく、聞き取るのも困難なほど肺雑音が混じっている。
それでも彼は必死に瞬に伝えようとしていた。
生きている人間であるにもかかわらず、彼がなぜ冥界にいたのか、彼がなぜ この冥界で生き続けていたのかを。

「前聖戦でアテナに力を奪われ長い眠りに就いていたハーデスが、この世界に最初の復活を果たした時、私は ハーデスによって すべてを奪われた。父、母、弟の身体、家族と暮らしていた城――ああ、可愛がっていた小鳥の命も奪われたな。まだ幼い子供だった私には、抗する術もなかった。私は、私から幸福を奪ったハーデスを憎み――そして、奪われたものを、たった一つでも取り戻したくて、そのために ハーデスの野心を利用することを考えたんだ」
「ハーデスの野心……?」
「そう。ハーデスは、君の身体を自らの魂の器にしようとしていた。地上で最も清らかな魂を持つ者だけが、ハーデスの魂を その身に受け入れ、神と同化することができる。私は、君の身体をハーデスから横取りし、そこに ハーデスの魂ではなく私の弟の魂を宿らせようとした。弟の復活とハーデスへの復讐を同時に成し遂げることのできる一石二鳥の策――のはずだった」
「シュンというのは、では……」
「弟に、君の名をもらったんだ。だが、それが仇になったらしい。私の弟は、自身の不幸を恨むことをせず、あの子のために何をしてやることもできなかった兄を憎むこともなく、こんな兄の幸福を願うものになってしまった。君のように優しく清らかなものに――」

彼が自嘲めいた笑みで その唇を引きつらせたのは、あくまでも自分自身の卑劣を嘲るためで、弟の心のありようを憎み悲しんでのことではないようだった。
弟のことを語る時だけ、パンドラの声からは険しさが消え、それは ひどく優しい響きを帯びた。
「さすがに地上で最も清らかな魂を持つ者。弟のために君を利用しようとしていたのに、逆に 私の心は君に惹かれ、取り込まれ――私は、君に愛されている者たちを妬んだ。だから――すまない。デスクィーン島で 君の兄に憎しみを吹き込み、彼をアテナの聖闘士の裏切者に仕立てあげたのは私だ。私は、君の兄や君に愛されているキグナスに、君を裏切らせようとした。人間の醜さを君に見せつけ、君を人間に失望させ――私は君が君の命と身体を放棄したいと考えるように仕向けることを企んだんだ」

「瞬が俺を?」
こんな時だというのに、パンドラの言葉を耳にとめ、“瞬に愛されているキグナス”に向けられている瞬の愛というのは、どういう種類の愛なのかを、瀕死の男から聞き出そうとした氷河の脇腹に、星矢が右の肘を のめり込ませる。
「ハーデスの気配が消えているぞ」
低く呻いた氷河に気付かぬ振りをして、紫龍は仲間たちに状況の変化を知らせてきた。
氷河たちは、敵の気配が消えたことで かえって緊張感を増すことになったのだが、瞬は、自分の目の前で急速に命の力を失いつつある男の目をしか見ていなかった。

「あなたはいつも僕を守り助けてくれたよ」
「それも、最初は、弟の魂の器として 君を利用しようとしてのこと。そして、後には自分の恋のため」
一瞬 自嘲の色を濃くしたパンドラの瞳は、しかし、すぐに、困った駄々っ子を見詰める母親や兄のようなそれに変わった。
「ハーデスのことなど放って 生者の国に帰れと言っても、君は聞かないのだろうな……。君の身体を手に入れることができないとなれば、ハーデスは必ずエリシオンに行くだろう。そこには、あの神の本当の肉体がある。聖衣を着けていろ。君なら――君たちなら、必ずハーデスを倒すことができるだろう。私のものにできなかった君、ハーデスになど渡すものか……!」

今にも命の火が消えようとしているというのに――むしろ、だからこそ?――パンドラの声に力がこもる。
「さあ、行きなさい。君に死ぬところは見られたくない」
パンドラは、おそらく瞬のために、微笑さえ浮かべて そう言ったのだろう。
だが、一人の不幸な人間の死を目の前にして、今の瞬は自分がアテナの聖闘士であることを放棄してしまっていた。
「あなたを置いて行くことなんてできないよ!」
瞬の瞳から涙が零れ落ちる。
その小さな雫は、死にゆく男の頬に落ち、更に小さな雫になった。

「すべての贈り物を与えられた者――。私は その名に反して すべてを奪われた者だと思っていたが、最後に何て美しい贈り物をくれるのだ、瞬」
ジュデッカの石の床の上にあるパンドラの指と手が僅かにうごめく。
おそらく彼は、瞬の頬に散る涙を その指で拭おうとした。
だが、既に その力は彼には残っていなかったらしい。
悲しげな目をして、彼は瞬に、
「ここは崩れる。急いで」
とだけ告げた。

冷たい石の床に力なく座り込み、それこそ駄々っ子のように大きく首を横に振った瞬に 立ち上がることを促したのは、肉体を持たないパンドラの弟の声だった。
「行ってください。兄さんの気持ちを無駄にしないで」
「で……でも、僕は……」
星矢と紫龍が、瞬の腕を引く。
「兄さんのために、そうしてください。兄さんの誇りのために。兄さんのことは、僕が最期まで見ているから――」
瞬の心に似た声が、瞬にアテナの聖闘士に戻ることを促した。

そうして――地上の光は、冥府の王の死の手から守り抜かれたのである。






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