This is not a game

〜 森の木さんに捧ぐ 〜







双六すごろくぅ !? なんだよ、それ〜っ !? 」
星矢が城戸邸ラウンジに素頓狂な大声を響かせたのは、つい この間 新しい年を迎えたつもりだったのに、ふと気が付くと既に1年の24分の1が過ぎてしまっていることに愕然とする頃。
正月気分がすっかり抜け、商魂たくましい日本の百貨店やスーパーが 早くも節分やバレンタインデー用の商品を店頭に並べ始めた頃だった。
別に隠す必要もないことと、沙織が 問われたことに 滑らかな口調で答えてくる。

「まあ、星矢ったら、双六も知らないの? 双六というのは、サイコロを振って 出た目の数に従ってマス目にある駒を進め、ゴールに近づけていく 伝統的ボードゲームのことよ。起源は古代エジプトで遊ばれたセネトというゲームだと言われているけど、現代の日本でポピュラーな盤双六の原型は、ローマ帝国発祥の――」
「そうじゃなくってさ!」
まるで百科事典の該当項目の欄を読み上げているような沙織の言葉を、星矢が再度 大きな声で遮る。
星矢が知りたいのは、双六が何なのかということではなく、もちろん、その起源や発展の歴史でもなかったのだ。

「俺が知りたいのはそういうことじゃなくってさ。その伝統的なボードゲームが なんでここにあって、しかも、なんで俺たちがそれをやることになってるのかってことだよ!」
青銅聖闘士たちの溜まり場になっている城戸邸ラウンジに『こんにちは』の挨拶一つなく乗り込んできた沙織に、突然 伝統的ボードゲームの盤をセンターテーブルに広げられ、説明もなしに、『じゃあ始めてちょうだい』と言われた者の一人として、星矢の質問は実に妥当かつ自然なものだったろう。
その質問に対する沙織の答えは、何とも掴みどころのないものだったが。

「それはまあ、あなたたちアテナの聖闘士の宿命というか、運命というか――」
「宿命?」
アテナの聖闘士たちが今日ここで双六遊びをすることが宿命だというのなら、今日が小正月の明けた日――つまり 鏡開きの日だということも、先日まで城戸邸で飾られていた巨大鏡餅が 星矢の知らぬうちに星の子学園に寄贈されてしまったことも、おかげで今年の鏡開きの汁粉が城戸邸では作られなかったことも、『今日のおやつは汁粉になるだろう』という星矢の期待が裏切られてしまったことも、汁粉の代わりに出てきた今日のおやつが マシュマロの浮かんだホットココアと 美味で高価なものには違いないのだろうがマロングラッセが2粒だけだったことも、宿命と言えるだろう。

汁粉とマシュマロ入りココアは 確かに見た目は似ているが、飲食したあとの満腹感の程度と腹持ちが大いに異なる。
イタリア産の高級栗で作られたマロングラッセに至っては、僅か1秒で星矢の腹の中に収まってしまった。
つまり、たった今(午後3時30分現在)、星矢は空腹だったのである。
より正確に言うなら、本日 午後3時の時報を聞いた時に期待したほどには 星矢の腹は満たされていなかった。
そのため、沙織に 双六ゲームに興じるのはアテナの聖闘士の宿命と言われた時、星矢は、冷静な判断力――普段、彼がそれを有していたとしての話だが――を、欠いていたのである。

「この双六は、ポセイドンやらハーデスやらが 悪乗りして作ったものなのよ。自分の支配下に治め損なった人間界を自分たちが支配してる感じを味わいたかったとかで、彼等ったら、マスに書いてあることが実現する双六を作ってしまったの。馬鹿なことは考えないでと たしなめて、彼等から このゲーム盤を奪い取ったまではよかったんだけど、この双六、誰かが一度はプレイして ゴールに辿り着かないと 消去も廃棄もできない代物なのよ」
「マスに書いてあることが実現する?」
そう言われてしまうと、いったいどんなことが実現するのかを知りたくなるのが人情というものだろう。
それまで星矢と沙織のやりとりを脇で聞いていた瞬は、テーブルの上に広げられたゲーム盤を覗き込んでみたのである。
そして、ゲーム盤のマスに書かれているイベントの内容を見て、我知らず口許をほころばせた。

「ふふ、星矢、このゲーム、すごく可愛いよ。最初に2が出たら『準備運動として懸垂500回を実行する』、3が『お汁粉で腹ごしらえする』だって。もしかしたら、ハーデスたち、日本の季節感を考慮して このゲーム盤を作ってくれたのかな? 文章も日本語で書かれてるし」
「お汁粉で腹ごしらえ? んな項目があるのか? マスに書いてあることが現実になるってことは、このゲームを始めて3の目を出せば、俺の・・汁粉が出てくるってことか !? 」

お汁粉。
それは、今の星矢が、地上の平和と安寧より、人類の存続より、焦がれ求めているものだった。
星矢は、喉から手が出るほど、それが欲しかった。
心と腹の底から求めてやまない汁粉が、ちょっとサイコロを転がすだけで手に入る――らしい。
星矢は俄然、アテナの聖闘士の宿命の実践に乗り気になったのである。
瞬の言葉に誘われて、星矢がギリシャの神たちが作ったゲーム盤を覗き込むと、そこには、『お汁粉で腹ごしらえ』以外にも魅力的なイベントが目白押しに並んでいた。

「うわ、『お菓子の家が出現する』だってよ! 『クッションサイズのマフィンが焼きあがる』ってのもある。すげー、『空から まんじゅうが降ってくる』だと! なんだ、これ、ポセイドンやハーデスが作ったにしちゃ、随分 気がきいてるじゃん。やろう、やろう!」
今の星矢は、空腹のため――というより、期待を裏切られたことによって生じた落胆と やるせなさのせいで、冷静な判断力を欠いていた。
そのゲーム盤を作った者たちが、ポセイドンやハーデスといった神々――つまり、アテナの聖闘士たちに対して恨みを抱きこそすれ、決して好意など感じていないはずの者たちだということを、お汁粉とお菓子の家の幻影に惑わされた星矢はすっかり失念してしまっていたのである。

アテナの聖闘士が孤独な戦士ロンリー・ソルジャーでなかったことは、この地上世界にとっても、地上に生きる人類にとっても、そして 星矢自身にとっても、幸運なことだったろう。
彼には、
「待て、星矢、早まるな!」
と言って、彼の短絡的な決断を止めてくれる仲間がいたのだ。
「紫龍、なんで止めるんだよ。おまえ、汁粉、嫌いだったっけ?」
「そんな理由で止めたりするわけがないだろう。おまえの目は、食い物に関する文字しか読めないのか。それ以外のマスに書かれているイベントを よく見てみろ!」
「それ以外のマス?」

言われて、星矢は再度 ゲーム盤に視線を落とした。
星矢の目が 食べ物に関する文字しか読めていなかったのは事実だったかもしれない。
星矢が再度 視線を向けたゲーム盤には、『お汁粉で腹ごしらえする』より はるかに大きなマスが幾つもあり、それらのマスには『お汁粉で腹ごしらえする』より はるかに大きな文字で、とんでもないイベントが書かれていたのだから。
すなわち、『聖域が偽教皇に支配される』『海底神殿の7つの柱が復活する』『グレイテスト・エクリップスが実現する』等、聖域やアテナの聖闘士のみならず、地上と人類の存亡に関わる大イベントが。
しかも、ところどころに『冥界への招待状を受け取る』のマスが散りばめられている。

「ギリシャの神様たちって、呆れるくらい 自分の欲望に正直で、しかも執念深いな〜。奴等、まだ地上支配を諦めてないのか」
『お汁粉で腹ごしらえする』に気をとられていた星矢が、さすがに少し冷静になって ぼやく。
それらのイベントが実現してしまったら、呑気に汁粉の味を味わっていられなくなるくらいのことは、星矢にもわかった。
星矢が汁粉の夢から覚醒してくれたらしいことを確かめた紫龍が、改めて、この危険極まりないゲームをアテナの聖闘士の許に運んできた沙織に向き直る。
そして、彼は、アテナの聖闘士として至極当然の意見を彼女に告げた。

「沙織さんは このゲーム盤に書かれていることを、我々に実現させろというんですか? それは、アテナの聖闘士の務めに反することでしょう。我々にそんなことができるわけがない」
「ええ、そうね」
アテナの聖闘士として至極当然の その発言に、アテナはもちろん賛同してくれた――理解を示してくれた。
だが、当然で正しく真っ当な意見が どんな障害もなく受け入れられるほど 世界が単純にできているのであれば、この世には神も警察もいらないのである。

「あなたの言う通り、海底神殿の7つの柱が復活してしまったら 地上は洪水で水浸し、グレーテスト・エクリップスが起きてしまったら 地上は死の世界と化すことになるわ。でも、安心して。この双六、ゴールが『すべてが元に戻る』なのよ。地上が滅んでも、人類が滅亡しても、あなたたちの中の誰かがゴールに辿り着きさえすれば、すべては元通り。それで、この双六盤も消えることになっているの」
「しかし、この双六が 地上の崩壊を招きかねない危険なゲームであることに変わりはない。こんなものは やはりどこに封印してしまった方が安全でしょう。あの神々のことだ、何か姑息な罠が仕掛けられていないとも限らない」
仮にも神である者たちを――海界や冥界を支配するギリシャの有力神たちを――姑息と断じたも同然の龍座の聖闘士を、沙織は たしなめるようなことはしなかった。
むしろ、紫龍の懸念を当然のことと考えている顔で、知恵と戦いの女神は 彼女の聖闘士に深く頷いた。

「それも考えたのだけれどね。こういう厄介なものって、どこに隠しても、きっと誰かが見付けるし、固く封印しても、必ず その封印は解かれるものでしょう。それが お約束なのよ。眠り姫は、両親が国中の糸紡ぎを隠したにもかかわらず それを見付けてしまったし、千夜一夜物語では 鬼神が封印された壺のフタは漁師によって開けられてしまったし、青髭公の妻は 見てはならないと言われていた部屋の扉を開けてしまった」
「それはそうかもしれませんが……」
「そのお約束通り、もし何も知らない人が この双六を見付けてゲームを始め、ゴールに辿り着く前に ゲームを途中で投げ出したりしたら、それこそ地上は とんでもないことになるわ。この双六を完全に消滅させるには、どうしたって やっぱり アテナの聖闘士が責任感と義務感をもって ゲームを最後までやり遂げるしかないのよ」
「……」
アテナにそこまで言われてしまっては、紫龍としても それ以上の反駁は難しかったらしい。
ギリシャの有力神たちの姑息への懸念を完全に払拭できたわけではないのだろうが、紫龍は 双六ゲームの開始と完遂を提唱するアテナへの抵抗を諦めたようだった。






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