初手のお汁粉敗退を皮切りに、実現双六ゲームは、前半は星矢にのみ過酷だった。
氷河が7の目を出して進んだマスの『レルネ沼でヒドラが大暴れ』は、実際にレルネ沼ではヒドラが大暴れしていたのかもしれないが、城戸邸のある日本国内は平和そのもの。
紫龍が12の目で進んだマスの『最強の矛を持った男と最強の盾を持った男が熾烈な戦いをする』では、その戦いがどこで行なわれているのかを アテナの聖闘士たちは知ることすらできなかった。
瞬が4の目を出して『ハーデスにさわられて1回休み』のマスに進み、城戸邸ラウンジにハーデスの姿が現われた時には アテナの聖闘士たちも さすがに慌てたのだが、彼はマスに書かれている通り、瞬の手に一瞬触れただけで、悔しそうな顔をして いずこかに消えていった。
どうやらギリシャ語を日本語に訳す際に手違いがあったらしく、ハーデスはそのマスの内容を『ハーデスにさらわれて1回休み』としていたつもりだったらしい。
瞬は、間一髪のところで、『さらわれる』と『さわられる』の誤植に救われたのだった。

そんなふうに、星矢以外のアテナの聖闘士たちは、基本的に実害なしでケームの序盤をスムーズに進んでいったのである。
しかし、星矢はそうはいかなかった。
星矢が執念で辿り着いた『お菓子の家が出現する』のマス。
もちろん、それは城戸邸ラウンジに出現した。
家族が生活をするには小振りすぎるが、魔法使いのおばあさんが一人暮らしをするには十分な大きさ。ヘンゼルとグレーテルの絵本を読んだ子供が思い描く お菓子の家としては十分に及第点を与えられる、それは実に立派なお菓子の家だった。
城戸邸ラウンジが一般家庭の居間サイズだったなら、このクッキーのレンガでできた家は いったいどうなっていたのだろうと心配せずにはいられないほどの。
だが。

「やったー! お菓子の家だーっ!」
歓喜の声をあげて お菓子の家に突進した星矢は、クッキーのレンガ、鼈甲飴のガラス、パンケーキの瓦、チョコレートのドアでできたお菓子の家に 勢いよく跳ね飛ばされ、ラウンジの壁に背中から衝突することになってしまったのである。
そして、全身打撲による無数の青痣と 後頭部に見事なタンコブを一つ作った。

お菓子の家は出現した。
確かに出現した。
だが、そのお菓子の家は、星矢に食べられることを断固として拒む、防御力完備のお菓子の家だったのだ。
双六盤の『(お菓子の家が)出現する』は『(お菓子の家を)食べられる』ことと同義ではないのだということに、その段になって 星矢は初めて気付いたのである。

「俺、なんか嫌な予感がする……」
希望と期待に満ちて開始した双六ゲームに2度までも手痛い裏切りを食らわされた星矢が、暗い表情で 呻くように呟く。
その予感は、もちろん当たるのである。
当たらない“嫌な予感”など、そもそも生じる意味がない。
星矢が次に9の目を出して進んだマスは『まんじゅうが空から降ってくる』。
そのイベントは もちろん現実のものとなった。

幸か不幸か、城戸邸内にいたアテナの聖闘士たちは――空の下にいなかったアテナの聖闘士たちは――まんじゅうの直撃を受けずに済んだのだが、空の下にあった城戸邸の庭は、惨状を見慣れたアテナの聖闘士たちでさえ目を背けたくなるほど悲惨なありさまになった。
なにしろ、空から降ってくるのである。
大量のまんじゅうには加速度がついていた。
それらは地面に落ちると 途轍もない音を立てて破裂し、周囲に あんこを撒き散らしたのだ。
加速度のついたまんじゅうは、城戸邸の庭の木々の枝をへし折り、常緑樹の葉を黒く染め、あっという間に城戸邸の周囲を 鮮やかな(?)あんこ色一色に染めあげてしまったのである。

「こ……この おまんじゅう、もしかしたら世界中で降ってるのかな……?」
「まさか……。城戸邸の敷地内だけだろう。こんな雨に見舞われたら、怪我人が出るぞ」
「怪我人だけならいいけどさー……」
「星矢。不吉なことを言うな!」
お菓子の家の出現レヘルでは済まないほどの“嫌な予感”に襲われた紫龍が、強張った手でテレビのリモコンのスイッチを入れる。
壁のモニターに最初に映ったのは、『緊急まんじゅう速報』のテロップだった。
アテナの聖闘士たちが――否、人類が――初めて見る そのテロップ。
数秒後、それまで放映されていたらしい動物ドキュメンタリーは前触れもなく中断され、テレビ画面は スタジオからのニュース映像に切り替わった。

「世界中でまんじゅうが降っています! このまんじゅうには加速度がついており、直撃を受けた場合には怪我を負う可能性があります。皆さん、すぐに屋内に避難してください。繰り返します。世界中でまんじゅうが降っています! このまんじゅうには加速度がついており、直撃を受けた場合には怪我を負う可能性があります。皆さん、すぐに屋内に避難してください!」
ひどく興奮した年配のアナウンサーが、悲鳴のような声で あらぬこと(?)を口走っている。
全身から血の気が引いたアテナの聖闘士たちの前で、テレビは次々に恐るべき映像を映し始めた。

皮切りは、まんじゅうの降る新宿駅南口前の映像だった。
通りを歩いていたらしい一般市民が、全力疾走で駅舎の中に逃げ込もうとしている。
そして、まんじゅうの降るフランスはパリ、コンコルド広場。
まんじゅうの降る、バチカン市国・サン=ピエトロ広場。
まんじゅうの降る、エジプトはギザの三大ピラミッド周辺。
まんじゅうの降る、ハワイ・オアフ島の海岸。
まんじゅうの降る、ロシア・モスクワの赤の広場。
まんじゅうの降る、オーストラリア・グレートバリアリーフ。
とどめは、まんじゅうのあんこのせいで まだら模様になった霊峰富士の見るも無残な姿だった。

遠くで、1台2台では済まない数の救急車とパトカーのサイレンの音が響いている。
まんじゅうの直撃を受けて死者が出たのかどうかまでは定かではないが、自動車のスリップ事故や、あんこに滑った歩行者の転倒で怪我人が出ているのは、どうやら疑いようのない事実のようだった。

「こ……このゲーム、一刻も早く終わらせなきゃ……! とりあえず できるだけ大きな目を出して、先に進んで――」
頬を蒼白にした瞬が、自分の番でもないのに2つのサイコロに震える手をのばし、それを振ろうとする。
氷河はすぐに その手を押さえ、瞬に冷静になるように促したのである。
「落ち着け、瞬。焦る必要はないんだ。俺たちのうちの誰かがゴールすれば、すべては元に戻るんだから。それまでの間、地上がどんな悲惨に見舞われようと、すべては元に戻る。大事なのはスピードじゃない。最後まで やり遂げることだ」
「あ……あ、そ……そうだね。お……落ち着かなきゃ。で……でも、まさか、こんな……」

瞬が取り乱し、氷河が瞬に自重を促す。
平生の二人とは立場が全く逆だったが、それは、瞬が他人の痛みを より敏感に自分のものとして感じる傾向のある人間だったからだったろう。
決して、氷河が冷静な男だからではない。
なにしろ、氷河は、今 そんなことで取り乱しているわけにはいかなかったのである。
彼は、このゲームに参加した目的を まだ果たしていなかったのだから。
そして、氷河は、その目的が果たされる時、瞬には いつもの瞬でいてほしかった。
他のことに余計な気をまわさずにいてほしかったのである。

「紫龍、テレビを消せ。俺たちが心穏やかに このゲームを完遂できるように、外部からの情報はすべて遮断しておいた方がいい。瞬は 特に感受性が強いから、感じる必要のない責任感や同情心で冷静にゲームを進められなくなる」
「おまえにしては沈着かつ的確な判断だ」
感心したように紫龍が言い、
「瞬、気にすんなよ。まんじゅうが降ってきたって マンボーが降ってきたって、それは俺たちに責任のあることじゃないし、俺たちがアテナの聖闘士としての義務を果たせば、ぜーんぶ元に戻るんだから」
星矢が、瞬を慰め励ます。
それで、瞬は 少し落ち着きを取り戻すことができたのである。
次に瞬が進んだマスが『地球上で行なわれている あらゆる戦争と内戦が終結する』という、一時的にでも実現の嬉しいイベントだったことも手伝って、瞬の混乱は なんとか収まることになったのだった。
そうして。
アテナの聖闘士たちは、彼等に課せられた宿命の遂行に、再び邁進することになったのである。






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