やはり、それは“恋”と呼ばれる感情だったのだろう――と、瞬は思ったのである。
言ってみれば、唇と唇が触れ合うだけのことに、これほど胸が騒ぎ、やがて陶然となり、ずっとこのまま いつまでも氷河の手の熱を我が身に感じていたいと願ってしまうところを見ると。
やがて、氷河の唇が ゆっくりと名残惜しげに瞬のそれから離れていく。
恐る恐る目を開けた瞬は、テーブルを挟んだ向かい側に二人の見物人がいることに気付いた途端、背中に冷水をかけられたように急激に正気に戻り、そして死にたい気分になってしまったのだった。

「もう、やだ、こんな……。世界の平和と安寧を守るためなんだとしても、どうして僕が こんなことをしなきゃならないの……!」
声に、つい恨みがましい響きが混じってしまう。
その声と言葉を聞いた氷河の顔が僅かに強張るのを認め、瞬はひどく慌てることになった。
瞬が『こんなこと』と思い、『もう、やだ』と思ったのは、氷河とのキスという行為そのものではなかったのである。
そうではなく――その素晴らしく心地良い行為の実行を双六ゲームに強要され、更には仲間たちの目のあるところで行なわなければならなくなったことだったのだ。

「氷河、ち……違うの! そうじゃなくて……あの、こういうことを星矢たちのいるところでするのが、きまりが悪いっていうか……恥ずかしいっていうか……。氷河とキスするのが嫌だったわけじゃないんだよ!」
ここまできて、今更 嘘を言っても始まらない。
氷河とのキスは、本当に嫌ではなかったのだ。
恥ずかしさと きまりの悪さで頬を上気させ、瞬は伏目がちに氷河に訴えた。
その訴えを聞いた星矢が、日本人らしい奥ゆかしさや たしなみに欠けた行為を恥じている仲間の気持ちを慰めるため、明るく能天気な声を室内に響かせる。

「んなこと、気にすんなって! どうせ、このゲームが終われば 全部 元に戻るんだ。おまえと氷河が 男同士のくせに堂々と恋の告白なんてもんをしたことも、おまえらが俺たちの目の前でキスしたことも みんな、なかったことになる。俺たちだって、おまえと氷河が俺たちの目の前でちゅーしたことなんて、綺麗さっぱり忘れちまうんだから」
「綺麗さっぱり忘れる……?」
星矢が口にした瞬への慰めの言葉(?)に、瞬より先に反応を示したのは氷河だった。
氷河に数秒 遅れて、星矢の言葉の意味を理解した瞬の頬から血の気が引いていく。
その場では星矢だけが、自分が口にした言葉の重大性に全く気付いていないようだった。
「だって、すべてが元に戻るって、そういうことだろ? 全人類に、まんじゅうで死にかけた記憶なんか残ってみろよ。どう考えたって、その先 生きていきにくいことになるぜ。中には まんじゅうのせいで死んじまった奴もいるかもしれないんだ。元に戻るには、全部忘れちまうしか方法がないじゃん」
「……」

それは星矢の言う通りだった。
このゲームが終わった時、すべての人間は、すべてを元に戻すために、すべての記憶を忘れなければならない。
好きだと告げたこと、告げられたこと。
好きだと答えたこと、答えてもらったこと。
そして、仲間たちの前で唇を重ね合ったことも、すべては“なかったこと”になってしまうのだ――。






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