この双六ゲームに参加した目的は果たした。
結果は、期待していた以上に喜ばしく好ましいもので、その点に関しては 氷河は いかなる不満も感じていなかった。
だが。
すべては元に戻ってしまうのだ。
双六ゲームの力を借りてとはいえ、瞬に好きだと告げたこと。
双六ゲームの力に突き動かされてとはいえ、瞬に好きだと答えてもらったこと。
そして、二人の初めてのキス。
それらすべてのことが、それらのことが為された時間さえ、このゲームが終わった時、“なかったこと”になる。

そんなことがあっていいのだろうか。
それはまるで、人間が束の間 命を授かり、懸命に その命を生きたことが、その死と共に“なかったこと”になるも同然のこと。
人間が生きることには どんな意味もない、その命は“世界”に何を残すこともできないと言われているも同然のことだった。

「氷河! おまえ、やる気あんのかよ!」
今 この瞬間を生きていることに虚無感を覚え始めていた氷河の上に、突然 星矢の怒号が降ってくる。
「……やる気?」
それはいったい何だろう。
人の命も、激しい恋の感情も、この地上を守るためにアテナの聖闘士たちが命をかけて戦ったことも、すべては無に帰すというのに、どうすれば やる気など感じていられるのか。
そう思いながら ゆるゆると顔を上げた氷河は、その段になって初めて、城戸邸の窓の外の光景が灰色一色に染まり覆われていることに気付いたのである。
そして、どうやらそれが、自分が うわの空で振ったサイコロの目が 彼の駒を『グレイテスト・エクリップスが実現する』のマスに進めてしまったことによって引き起こされた事態であるらしいことに。

星矢が顔を真っ赤にして怒っているのは、氷河が その駒を『グレイテスト・エクリップスが実現する』のマスに進めたからではなく、そのやる気のなさに対してであるらしい。
氷河の隣りで、徐々に闇の濃さを増していく世界の様子に、瞬は不安そうな目をしている。
「どうせ、元に戻るんだ……」
投げやりに そう呟いて、氷河は、心細そうにしている瞬の肩を引き寄せ、抱きしめた。
人の命も 世界の存在もすべて、いずれは“なかったこと”になるのだとしても、今この瞬間 瞬が不安でいるというのなら、その不安はできるだけ やわらげてやりたかったから。
瞬が、我が身とその心を支えるものを求めるように、その手と頬を氷河の胸に押し当ててくる。

どうせ すべては元に戻るのだとしても、人の命は誰の命も いずれは消えてしまうのだとしても、この地球と人類が永遠に存在するものではないのだとしても、こうして瞬と寄り添い合っている今この時、その温もりには 快さと幸福感を感じないわけにはいかない。
これが“生きる”ということなのかと、これが 限りある命しか持たない人間が生きることの価値と意味なのかと、氷河は思うともなく思ったのである。
すべてが いつかは無に帰すのだとしても、この一瞬の命の輝きを否定することはできない。
瞬の優しい体温を心身で感じ確かめながら、氷河はそう思った――そう感じていた。
だが、だからこそなおさら、二人が今こうして寄り添い支え合っていることを 忘れたくはないのだ――と。

「星矢、落ち着け。氷河も好きでグレイテスト・エクリップスを起こしたわけではないだろう。すべては元に戻るんだ。ここで俺たちがつの突き合っても、何にもならん」
いきり立つ星矢を、紫龍がなだめる。
このゲームに最も乗り気でなかった男が、ゲーム内でのトラブルに最も冷静に対処できるのは当然のことなのかもしれないが、それは実に幸いなことでもあったろう。
社会というものは、様々な考えと価値観を持った者たちが協力し合うことによって形成され、そういう状態で前進することが 最も間違いの少ないことなのかもしれない――。

このゲームに最も乗り気だった星矢が、殊勝にも そんなことを考え始めていた時だった。
このゲームに対して 最も距離を置いたところに立っており、それゆえ参加メンバーの中で最も客観的な視点を有し、また冷静さをも備えているはずの龍座の聖闘士が、彼らしくない感情的な大声を室内に響かせたのは。
「『13が出るまで、休み』とは何だ、『13が出るまで、休み』とは! サイコロは六面体だぞ。2個のサイコロで12より大きな数を出すことができるわけがないじゃないか!」

紫龍の憤りは当然のものだったろう。
望んで参加したわけではないゲーム。
それでも彼は、己れに与えられた宿命を受け入れ、ゲームの中のルールに従って、気乗りのしない戦いを戦い続けてきたのである。
神々が神々の作ったルールを人間に強いるなら、神々もまた、せめて自然界のルール・法則くらいは守るべきである。
2個のサイコロで13の目を出せというのは、あまりに卑劣で あまりに卑怯なやりようだった。

だが。
神々の卑劣は、それだけでは終わらなかったのである。
「どうしよう……。僕、『誰かがゴールしたら、あがり』だ。これって、誰かがゴールするまで、僕自身は何もできないってことだよね。」
「なんだとぉ〜!」
「ば……ばか、星矢、安易にサイコロを転がすな! 今は おまえの番なんだぞ!」
「へっ」
神々の卑劣に腹を立て興奮した星矢を 紫龍が制止した時には、もう遅かった。
その時には星矢は既にゲーム用のサイコロを転がし、3・2の5の目を出してしまったあとだったのである。
そして、星矢の駒が5つ前進した先のマスに記されていた文言は、『プレイヤー全員が死ぬまでサイコロを振れない』だったのだ。

「ひでー! これは卑怯な陰謀だ! 紫龍と瞬が身動きとれないってことは、死ぬこともできないってことで、つまり俺も何もできないってことじゃないか!」
「ハーデスにポセイドン――やはり、俺たちに野望を断念させられた恨みを忘れてはいなかったか。それにしても、何と卑怯な……」
「てことは、動けるのは氷河だけってことか」
既にアテナの聖闘士たちは このゲーム世界の住人になってしまっている。
それがどれほど理不尽であっても、その世界のルールに従って生きていくしかない。
地上に生まれ落ちた人間が、地上のルールに従って生きていくしかないように。
そして、この双六ゲームの世界のルールにのっとれば、アテナの聖闘士最大の このピンチを打破する可能性を有しているのは、今は氷河ひとりだけだった。

「こ……ここは慎重に行こう。今、氷河はゴールから12手前のマスにいる。この先の奇数のマスは特にイベントはないが、すべてに『冥界への招待状』が置いてある。奇数は出せない。6だと、瞬がはまった『誰かがゴールしたら、あがり』、8だと、俺がはまった『13が出るまで、休み』、10だと、星矢がはまった『プレイヤー全員が死ぬまでサイコロを振れない』の罠に落ちる」
「4もだめだよ。『サイコロが消える』だもの。本当に誰も何もできなくなっちゃう」
「してみると、残りは2と12か。12が出れば、当然 あがりになるわけだが――」
言いながら、紫龍が、氷河が2の目を出した場合に進むマスの上に視線を落とし、低い呻き声を洩らす。
そこには、『今ある状態が永遠に続く』という文言が記されていた。
つまり、氷河が このゲームを終わらせるためには12の目を出す以外に道はなく、他のどんな数が出ても、世界が旧に復することはない――ということだった。

2個のサイコロを振って、6・6の12の目が出る可能性は36分の1。
すなわち、2.78パーセント。
それは、確率が0パーセントでないことが唯一の救いといっていいような数値である。
星矢は青ざめた。
その確率の低さを案じて。
そんな星矢の横で、紫龍も同様に青ざめていたのだが、彼の懸念は 実は、2個のサイコロの組み合わせ・確率といった数学的問題とは違うところにあったのである。






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