「氷河。おまえ、まさか、2を出そうと思っているのではないだろうな」
「いけないか? 俺は元に戻りたくなどない。瞬が俺のものでいてくれるなら、俺は世界なんてどうなっても構わない」
「氷河っ!」
紫龍が珍しく声を荒げ、そして絶句したのは、『世界などどうなっても構わない』と告げる氷河の声が、完全に“本気”だけでできたものだったからだったろう。
いつもと全く逆パターンで、星矢がそんな紫龍をなだめにかかる。
「紫龍、どうしたんだよ。おまえらしくない。サイコロの目なんて、出そうと思って出せるもんじゃないだろ。こればっかりは運を天に任せるしかない」
人に自重自制を促されるばかりで、人に自重自制を促したことのない星矢にしては、それは奇跡的に上手くいった慰撫行為だったろう。
氷河に向かっていた紫龍の憤慨――義憤と言っていいだろう――は、星矢のその言葉によって、すみやかに ある種の脱力感に変移することになったのだから。

「星矢、おまえ気付いていなかったのか」
呆れたような目を星矢に向けて、紫龍は彼に尋ねた。
「何を?」
問い返してくる星矢の他意のなさが、ますます紫龍の脱力感を強く大きなものにする。
「氷河はサイコロに氷を付着させて、重さを偏らせ、出したい目を出していた。もっとも、氷河がそれをやったのは『恋の告白の答えをもらう』のマスに行く時の1回だけだったが」
「へ?」
「瞬は、サイコロの周囲にごく小さな気流を作って8の目を出し、俺を黄泉比良坂の穴から引き上げてくれた。そうだな、瞬?」
「う……うん……」
「かく言う俺も、エクスカリバーの応用技で空中に ごく小さな真空地帯を作り、サイコロの動きを操って、『海底神殿の7つの柱復活』を避けたんだが」
「……」

所詮、なだめ役は星矢に向いた役柄ではない。
初めて知らされた驚愕の事実に、星矢は いつもの彼らしく興奮し、声を荒げることになったのだった。
「なんだよ! てことは、俺以外、みんなズルしてたのかよ!」
「人聞きの悪いことを言うな。事前の準備なしで戦いに挑む無謀を平気でできるのは、おまえくらいのものだ。逆に言えば、おまえが そんなだから、俺たちが慎重にならざるを得ないんだ」
「うー……」
自分の正直が仲間を老獪な人間にしてしまっているのだとしたら、それは星矢にも責めにくいことだった。
星矢が、その両の肩から力を抜く。

「道理で……くじ運が悪いはずの瞬は おまえを一発で生き返らせるし、氷河は氷河で うまいこと恋の告白をゲットするし――あ、でも、てことは、氷河は出したい目を出せるってことか!」
それが問題なのだと、やっと星矢は気付いてくれたらしい。
ここは目一杯緊張しなければならない場面だというのに、紫龍は 疲れきった溜め息を洩らすことになってしまったのである。
ゆっくり疲れていることもできず、彼は すぐに その心身に緊張感をたぎらせることになったのだが。

人間世界の支配を試みて、人間であるアテナの聖闘士たちに敗れ去ったギリシャの神々。
彼等が作った卑劣極まりない双六ゲーム。
その卑劣な罠にはまって、プレイヤー4人中3人までが、ゴールに辿り着けない絶体絶命の窮地に陥ったアテナの聖闘士たち。
だが、このゲーム完遂の最大の障害は、神々の作った卑劣な罠ではなく、グレイテスト・エクリップスの実現でも海底神殿の7つの柱の復活でもなく―― 一人の男の一つの心だったのだ。






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