「氷河、わかっているな? おまえが出すべき数は2ではなく12だ。今ある状態が永遠に続いたら、この地上はどうなる! 今この地上には まんじゅうの雨が降りしきり、しかもグレイテスト・エクリップスによって陽光が遮られ、太陽系の惑星の引力の釣り合いは極限状態にあるんだ。おまえが このゲームを終らせなければ、俺たちがこれまで命をかけて守ってきた地上と地上に生きる人間すべてが死滅してしまうんだぞ!」 紫龍の必死の説得は、だが、 「俺は好きで戦ってきたわけじゃない」 の一言で、あっけなく退けられてしまった。 一人の人間として アテナの聖闘士としての道を説く仲間たちから目を逸らし、氷河は、彼の恋人の方に向き直った。 「俺は好きで戦ってきたわけじゃない。俺は、もしかしたら、おまえより戦いが嫌いな人間だ。戦いは、俺の大事なものを俺から奪うだけのものだった。戦いのせいで、俺はすべてを失ったんだ。俺がそれでも戦いを続けてきたのは、おまえがそこにいたからだ。おまえが命をかけて戦っていたから。おまえが俺のものでいてくれるなら、俺は地上なんかどうなってもいい。おまえ以外のすべては、俺にとっては余計なものだ。全部消えてくれた方が、いっそ せいせいする」 「おい、氷河、おまえほんとに わかってんのか! このゲームを終わらせて、すべてを元に戻さなきゃ、地上は破滅だ! おまえ、自分一人の都合で、この世界を消し去るつもりなのかっ!」 完全に自分一人の都合で、自分一人の感情で、自分以外の人間の命を重みを無視しようとしている氷河の言い草に激怒して、星矢が氷河を怒鳴りつける。 しかし、その声は氷河の耳には届いていないようだった。 氷河の耳と目は――その五感も心も、すべては彼の恋人に向けられていた。 思い切り大胆に氷河に無視されてしまった星矢が、再度 氷河に食い下がろうとする。 それを止めたのは、星矢同様 氷河にここで2を出させてはならないと考えているはずの紫龍だった。 『俺たちでは説得できない』と、彼の目が星矢に告げてくる。 氷河に12の目を出させることができるのは、この地上にただ一人、アンドロメダ座の聖闘士だけなのだ。 その瞬にも、どうすれば氷河の中に アテナの聖闘士として採るべき道を思い起こさせることができるのかは わかっていないようだったが。 それはそうだろう。 瞬にとって、これまで 氷河は、まず何よりアテナの聖闘士という絆で結ばれた一人の仲間だったのだ。 当然 氷河はアテナの聖闘士としての務めが何であるのかを その心に刻み込んでいるものと、瞬は信じていたに違いない。 だが、瞬は、氷河に対して、『アテナの聖闘士の第一義は、地上の平和と安寧を守るために戦うことだ』などということを言い出したりはしなかった。 そんなことを訴えても無駄だと、瞬は直感で感じていたのかもしれない。 瞬は、到底“説得”とは言えないようなことを、小さな声で氷河に語り始めた。 「氷河。僕ね、このゲームを始める前から、氷河のことが好きだったよ。このゲームをしたいって思ったのも、『会いたい人に会える』ってあったからで」 「会いたい人に?」 「うん。僕、氷河のマーマに会ってみたかったんだ。ハーデスが作ったゲームなら、それは可能なことかもしれないでしょう? もし氷河のマーマが ここに現われてくれたら、氷河は喜んでくれるかもしれないって思ったんだ」 「おまえが会いたい人というのは、一輝のことじゃなかったのか」 「どうして? 一輝兄さんは生きてるよ。兄さんにはいつでも会えるのに」 「……」 それは氷河には思いがけない告白だったのだろう。 瞬が このゲームをプレイする気になったのが兄のためではなく 母を失った仲間のためだったということも、瞬が『アテナの聖闘士として為すべきことを為せ』と白鳥座の聖闘士に説いてこないことも。 いずれにしても、瞬のその告白が氷河の胸を打ったのは確かなことのようだった。 氷河が、物も言わずに瞬を抱きしめる。 「すべてが元に戻ったら、俺たちは、俺たちがこうして話したことも忘れてしまうんだぞ。俺は……忘れたくない」 「僕だって そうだよ。でも……でも、待ってて。僕、きっと勇気を出すから。僕はこんなに氷河が好きなんだから、今日 ここであったことを忘れても、すべてが元に戻ってもきっと……きっと勇気を出すから」 それが瞬にできる精一杯の“説得”だったらしい。 その説得が、どれほど氷河の心を動かすことができたのかは、星矢にも紫龍にも全く読み取れなかったのだが、氷河の心が全く動かなかったということはないだろう――と、彼等は思った。 ごく小さなものではあったろうが、氷河は瞬に希望を示されたのだ。 「氷河、僕は氷河が大好きだよ。今日 ここで僕たちの間にあったことを忘れたくはない。でも、世界を元に戻してください。僕たちだけが幸せでも、僕は幸せになれないの。僕は、僕が幸せでないことで、氷河を悲しませてしまうと思うから」 「……わかっている。おまえはそういう奴だし、そういうおまえだから、俺はおまえを好きになった。ここで世界を元に戻さなければ、多分 おまえは俺を憎むようになる。それは わかっているんだ。だが――」 だが それでも忘れたくないのだと告げる代わりに――おそらく必死の思いで その言葉を喉の奥に押しやって――氷河は その唇で瞬の唇をふさいだ。 そして、『恋の告白の返事をもらう』の際のそれとは 打ってかわって濃厚なキスを、仲間たちの前で交わし始める。 それは、どう考えても今日初めてキスなる行為を経験したのだろう瞬が 喘ぎ のけぞるほど熱烈なもので、へたをすると氷河はこのまま この場で瞬を押し倒してしまうのではないかと、彼の仲間たちが本気で心配してしまったのである。 日本人らしい奥ゆかしさも たしなみもあったものではない。 瞬も氷河を拒まない。 そして、二人のキスは なかなか終わる気配を見せなかった。 二人がキスを始めて確実に5分以上の時間が経った頃には、星矢は、人目を はばからない二人の大胆と情熱に すっかり呆れてしまっていたのである。 「どうせ 元に戻ったら みんな忘れるんだと思って、やりたい放題だな。氷河も瞬も、俺たちが ここにいることを忘れちまってるんじゃないか? まあ、一度は実った恋が水泡に帰すわけだから、大目に見てやるけどさあ」 忘れることが前提にあるのでなければ、奥ゆかしさという美徳を心得ている(はずの)日本人に、人前でこれほど恥知らずな真似ができるわけがない。 つまり そういうことなのだろうと決めつけて、二人きりの世界に没入している恋人たちを横目に、星矢はぼやいた。 その声には悲運の恋人たちへの同情心と、その同情心と同じ程度の安堵の思いが たたえられていた。 そんな星矢に、紫龍が憂い顔を向けてくる。 「氷河が本当に12を出すと思うか?」 「え?」 紫龍の表情と声には、かけらほどにも安堵の色がない。 そこにあるのは、ただ深い憂慮の色のみ。 星矢は、紫龍が何を案じているのかを察して、背筋に冷たいものを感じてしまったのである。 「だ……だってよ、瞬に 元に戻してくれって 「そんな言葉が何の保証にもならないことを、氷河は わかっているだろう。このゲームを始めるまで、二人がずっと言わずにいたことなんだぞ。おそらく、氷河は その気持ちを伝えることで 瞬に嫌われ迷惑がられて 二人の関係が修復不可能にものになることを恐れて、瞬は、その気持ちが恋であるはずがないと考えていたせいで。今ここで瞬が『勇気を出す』と言っても、すべてが元に戻ってしまったら、瞬は自分がそういう決意をしたこと自体を忘れてしまうんだ。氷河自身も、『好きだ』と告げれば 同じ答えを瞬から与えられることを忘れる。すべてが元に戻った時、氷河と瞬が再び恋人同士になれる可能性は、皆無とまではいかなくても極小だろう」 「で……でもよ……」 それでも氷河はアテナの聖闘士なのだ。 そのはずだと、自身に言いきかせるように、星矢は、束の間の別れを惜しんでいるはずの恋人同士の方を振り返ったのである。 二人は、今は 抱き合うことさえやめ、無言で互いを見詰めていた。 そして――そして、もしかしたら瞬は、紫龍が抱いている不安と同じものを、氷河の瞳の中に見い出したのかもしれない。 瞬は、その目に いっぱいの涙をためていた。 「氷河、大好き」 それが、世界の命運を その手に握っている男への 瞬の最後の言葉だった。 そうして、運命の |