事態が とんでもない方向に動き出していることを氷河が知ることになったのは、瞬が氷河の許で暮らすようになって1週間が経った頃。
紫龍と公爵家の家令が、氷河と瞬に その情報を運んできた時、氷河は城内の画廊で、北の公爵家の代々の当主の家族肖像画を瞬に披露していた。

「瞬がここにいることは、いずれ衆人の知るところになるだろうとは思っていたが――都は大騒ぎになっているぞ。北の血気に逸った若き公爵が、南の公爵家の弟君の可憐さに心を奪われ、邪恋の思い抑え難く、自分の城に略奪してしまったと」
「な……なにぃ !? 」
噂というものは 時に真実を伝えることもあるのだと、僅かなりとも噂の存在価値を認めるようになっていたところに、突飛に過ぎる噂を聞かされて、氷河は目を剥いてしまったのである。
噂は時に真実を伝えるもの、だが、それは 時にとんでもなく飛躍するものでもあるらしい。

「どうして そんなことになるんだ! いくら可愛くても、瞬は男だぞ!」
北の公爵は宿敵の家の一員を捕え、いたぶり拷問している――という類の噂が立つかもしれないということくらいは、氷河の想定の内にあった。
そういう噂が市井に流布し始めた頃を見計らい、弟の身を案じている南の公爵に、瞬が『北の公爵に親切にしてもらった』と明るい笑顔で告げる。
懸念が募っていただけに、瞬の兄は安堵し、その気持ちを和らげるに違いない。
そう、氷河は踏んでいたのである。
しかし、北の公爵と瞬の間にあるものが友情ではなく邪まな恋心ということになれば、話は全く違ってきてしまうではないか。

「なにしろ、この可憐さだ。南の公爵家では、たとえ男子でも気に入るに決まっているんだから、瞬を王に差し出してはどうかと考えている者が相当数いたらしいんだ。公爵家の者が王位に就くことが許されないなら、弟の美貌を使って王を動かそうと考えたんだな。兄である公爵が大反対したのと 前国王の崩御が重なったせいで、その計画は立ち消えになったそうだが、おまえが瞬に邪恋を抱くなんてことは、大いにあり得ることなんだ。邪まな恋心に囚われた北の公爵が、宿敵の家の清らかな少年を略奪してしまった――なんて、実に劇的で胸踊る事件だろう。都の噂好きの お喋り雀たちは、すっかり その噂を信じてしまっている。信じて、更に誇張させ、噂を拡大拡散させている」
「北の公爵は、南の公爵の朱の宮に単身乗り込み、安らかに眠っていた瞬様を有無を言わせず さらってきただの、朱の宮から さらってきた瞬様を馬の背に乗せ、真夜中の都の大路を疾駆する若様を目撃しただの、噂に尾ひれをつけ、自分好みに脚色を加え、都の者たちは あることないこと言いたい放題です」
「そいつは、散歩中の野良猫と馬を見間違えたんだろう」
紫龍と家令の語る無責任な噂話に、氷河が吐き出すように言う。
噂というもののたちの悪さに、氷河は目眩いすら覚え始めていた。

「どうすれば、そんな馬鹿げた話を捏造できるんだ! 俺は 瞬が南の公爵家の者だとは知らなかったし、館に連れてきて ゆっくりまともに見るまで、瞬がこんなに綺麗な子だと気付いてもいなかったんだぞ! 身なりからして、相当裕福な貴族の家の子弟だろうとは思っていたが、瞬が たとえ みすぼらしい服を着た平民の子供だったとしても、俺は同じことをしていただろう。俺は、見るからに細くて頼りなさそうな子供を、一人で雨の森の中に放っておけなかっただけだ!」
それは どんな嘘も含んでいない、紛れもない事実だった。
が、北の公爵が親切心から 南の公爵の弟を自分の城で雨宿りさせてやったなどという詰まらぬ事実より、邪まな恋の虜になった北の公爵が 南の公爵の可憐な弟君を略奪し蹂躙しているという、胸躍る劇的な妄想の方を、大衆は歓迎するものらしい。
噂などというものは、やはり信じてはならぬもの。
氷河は、心からそう思ったのである。
しかし、今 問題なのは、噂というものの本質がいかなるものであるのかということや その成り立ちの仕組みなどではない。
問題は、都の者たちが──否、おそらく、南の公爵家の者を含む国中の者たちが──事実とは全く違う 荒唐無稽な その噂を信じてしまっているという、その一点にあった。

民が信じたくて信じてしまっている噂を否定し覆すことはできるのか。
それは、国で一、二を争うことはあっても三に落ちることはない公爵家の当主の力をもってしても不可能なことなのではないのか。
我知らず暗鬱な気分になってしまった氷河に、紫龍が更なる追い討ちをかけてくる。
「その噂とは別の話なんだが──おまえが瞬の居場所を知らせるために我が家の紋章入りの短剣を突き刺してきた木に、おまえたちが森を出たあと、落雷があったらしい」
「あの木に落雷?」
「ああ。瞬がいるはずの場所にあった木は真っ二つに裂け、そこに残っていたのは1500年来の宿敵の家の紋章付きの短剣。南の公爵家の者たちが、それを 宿敵からの不遜で不敵で強烈至極な挑戦状と受け取ったとしても、まあ、致し方のないことだったろう」
「だから、なぜそうなるんだ! あれは挑戦状なんかじゃなく、瞬の居場所を教えるための目印――案内状 兼 招待状だ。そのつもりで残してきたんだ」
「おまえは そのつもりだったとしても、不吉すぎるだろう。裂けた巨木、略奪された可憐かつ か弱い美少年、そこに残された宿敵の家の印。好意的に解釈しろという方が無理だ」
「好意的に解釈しろっ!」

無理な望みを、この場にいない者たちに向かって、氷河が大声で要求する。
氷河の望みを叶えてくれたのは、氷河を この最低最悪の苦境に追い込んでくれた張本人、無責任な噂の もう一人の当事者にして被害者である瞬その人だった。
「あの大きな木に落雷があったなんて……。あのまま、あの木の下にいたら、今頃 僕は倒れた木の下敷きになって大怪我を──いいえ、へたをしたら命だって落としていたかもしれません。氷河は、僕の命の恩人です……!」
完全に好意的に、感動のあまり瞳を潤ませることまでして、氷河に感謝の眼差しを向け、見詰めている瞬に、
『しかし、この馬鹿が金属製の短剣を突き立てるなどということをしなければ、その木に雷が落ちることはなかったのではないか』
などという常識的な見解を示してやることは、紫龍にはできなかった。
瞬は、過ぎるほど好意的な目と心で、宿敵の家の当主である氷河を見詰めている。
ここで野暮な差し出口をはさんで 瞬を正気に戻すような真似をすれば、自分が北の公爵家の当主の恨みを買うに違いないことを、紫龍はよく知っていた。

同い年の従兄の賢明な判断に気付いているのかいないのか、紫龍には一瞥もくれず、氷河の目は、好意と感謝の色だけをたたえている瞬の瞳に魅入られたように見入っている。
瞬の瞳を見詰めたまま、彼は瞬に告げた。
「俺は、両家の争いを馬鹿らしいと思っている。こんな対立は無意味だ。俺は この対立をどうにかしたい」
氷河が そう思っていたのは事実だったろう。
だが、両家の対立を解消するために、彼がこれまで いかなる行動を起こさずにいたのもまた、厳然たる事実。
氷河は これまで主に、両家の対立の解消ではなく、両家の力の均衡を保つことにのみ腐心していた。
その氷河が『両家の対立をどうにかしたい』と言い出したのは、どう考えても、彼が瞬に出会ったからである。
自分と瞬が対立し合う家に属する者たちである事態を“どうにかしたい”と考えて、彼はそんなことを言い出したのだ。
氷河の調子のよさに、紫龍は内心で少々――否、大いに――呆れていた。

氷河の調子のいい言葉に、瞬が――こちらは心から両家の対立に心を痛めている様子で――頷く。
「僕も、同じ考えです。僕、ずっと、北の公爵家と僕の家を どうにかして仲直りさせることはできないかと思っていたの。そのためにも、今はともかく、一刻も早く兄さんの誤解を解かなくては。僕、すぐに本当のことを書いた手紙を兄さんに――」 
氷河が両公爵家の関係の改善を望んでいることは、瞬には非常に嬉しく喜ばしいことだったのだろう。
兄の誤解を憂え、一刻も早く兄の誤解を解かなければならないと告げる瞬の瞳は、しかし、明るい希望の光をたたえていた。
突然、両公爵家の改善を唱え始めた氷河、瞬の瞳の輝き。
この二人は今、冷静な判断力を欠いている――と、紫龍は思ったのである。
だから、兄に事実を伝える手紙を書くと言い出した瞬を、紫龍は慌てて押し留めたのだった。

「それは必ずしも 良い結果を生むとは限らない。むしろ、今 君が氷河を庇うような手紙を書くのは逆効果かもしれないぞ」
「逆効果?」
「そうだ。氷河が君への恋心から 君をこの城にさらっていったという噂は、南の公爵の耳にも届いているだろう。君の兄上は、氷河が君への けしからぬ振舞いに及んで君を脅している、あるいは、氷河が君を たぶらかし言いくるめたのだと考えて、かえって怒りを募らせかねない」
「そんな……それは、氷河の純粋な親切を侮辱する、ひどい誤解です……!」
北の公爵の純粋な親切心が今も健在だといいのだが――。
自分に親切にしてくれた人が侮辱されたことに心底から立腹しているらしい純粋な・・・瞬の様子を見て、紫龍は内心で そう思った。
もちろん、内心で思うだけである。
今 彼は、北の公爵に余計なことを言って、彼を変な方向に刺激するわけにはいかなかったから。

「では、僕が直接 兄を説得しに戻ります。僕が直接 兄に真実を伝えれば、兄さんだって僕の言葉を……いえ、氷河の誠意を信じてくれるはず――」
「できれば、それは、今はご遠慮ください」
とにかく氷河に加えられた侮辱を払拭しなければならないと気負い込んでいる瞬に自重を促したのは、今度は北の公爵家の家令だった。
「今すぐに瞬様を南の公爵殿の許に返すわけにはいきません。当家の体面というものもあります。こういう噂が立ち、ほとんどの人間がその噂を信じているのです。今、瞬様を南の公爵殿の許に返したら、無責任な大衆は、若様のことを南の公爵家の力を恐れて恋人を返した腰抜けと思うでしょう。恋の情熱より 家の存続や我が身の安泰を図る男など、大衆が最も軽蔑する人種。若様と当家が侮られかねない」
「まさか、そんなことは――」
「私には、当家の威信と体面を守る義務があります。保身のために恋を諦めた臆病な男と思われるより、恋のために宿敵の怒りを買うことを恐れず、恋人をさらってきた男と思われていた方が、よほど当家と若様の面目が立つ。大衆は、若様の恐れ知らずの快挙に喝采を送っているのです」

それは瞬には意想外の理屈だったらしい。
瞬は、恋の情熱より純粋な親切心の方が価値あるものと考えているようだった。
「でも、それは誤解だし――な……なら、僕が本当のことを皆に知らせてまわります」
「都の真ん中で演説でもぶつつもりですか。失礼ながら、たとえ そんなことをしても、瞬様のお言葉を信じる者は誰もいないでしょう」
「本当のことなのに? 氷河は純粋な親切心から、僕をここに連れてきてくれたんです!」
「人間というものは、詰まらない真実より、自分の信じたいものを信じるものなのですよ。大衆には、他人に施される親切や慈善行為より、有力者の恋愛騒動の方が楽しめる事件なのです。その方が楽しくて面白い」
「でも、このまま何もせずにいたら、氷河はずっと誤解されたままです。僕は、そんなのはいや」
「若様にも瞬様にも、それは耐えていただかねばなりません。行動を起こすのに適切な時が来るまで、どうか瞬様は当家に滞在し、事態の推移を見ていていただきたい。当家と若様のために」
「あ……」
北の公爵家と氷河のためと言われて、瞬はそれ以上 何も言えなくなってしまったらしい。
もどかしげに唇を噛み、瞬は その顔を伏せてしまった。

氷河の父の代から北の公爵家に忠実に仕えてきた家令。
彼は伊達に歳をとってはいないと、紫龍は感心していたのである。
彼は、今 瞬が北の公爵家を立ち去れば氷河が荒れるということを見越している。
そうして、結局 兄や民を直接 説得することを断念したらしい瞬は、北の公爵家への滞在を瞬に求める家令の言葉に実はかなり気をよくしている氷河の方に向き直り、切なげに訴え始めた。
「氷河、僕のせいでごめんなさい……。でも、何があっても僕たちは友だちでいて、いがみ合ったりせず仲良くしていましょうね。僕は、氷河が優しい人だということを知っています。僕は、氷河を信じています。僕は、氷河が大好きです」
「も……もちろんだ。俺とおまえが いがみ合うなど、天地が引っくり返ってもありえないことだ」
「嬉しい!」

人と人が憎しみ合うこと、いがみ合っていることが よほど嫌いらしく――そして、二人がいがみ合うことは決してないという氷河の言葉が よほど嬉しかったらしく――瞬は氷河の断固とした宣言を聞くと、小鹿が飛び跳ねるようにして氷河の首に両腕を絡め、そのまま氷河に抱きついていった。
氷河が、瞬の無邪気で大胆な振舞いに仰天し、一瞬 身体を強張らせる。
しかし、すかさず彼は瞬の身体を抱きとめ、抱きしめた。

(いいのか、この展開――)
紫龍が視線で そう尋ねた相手はもちろん、氷河でも瞬でもなく、氷河の父の代から北の公爵家に忠義を尽くしてきた経験豊かな家令。
が、“老練”を絵に描いたような家令も、さすがにこの展開は読めていなかったらしい。
薔薇も百合も色褪せさせると評されている瞬の無邪気なのか大胆なのかわからない行動に、彼は目を剥いていた。
無責任な噂が事実になりつつあることを、彼は当然感じ取っていただろう。

「あ……えー……。時機を見計らって、必ず瞬様は兄君の許にお返ししますので、それまでは当家で お心安く お過ごしください」
南の公爵の愛弟は必ず南の公爵家に返す。
瞬が氷河の側にいるのは それまでのこと。
家令はさりげなく二人に釘を刺したつもりだったのだろうが、彼の声は 氷河と瞬の耳には届いていないようだった。






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