当主が目に入れても痛くないほど大切に慈しんでいる公爵弟の姿が消えてしまった南の公爵家は、上を下への大騒ぎになっていた。 雷雨の中、南の公爵溺愛の実弟を たった一人で狼が出ることもある森に残してきたと告げる従者を叱りつけながら、10人体制で迎えに赴いた先に、南の公爵家自慢の名花の姿はなく、あったのは不吉に裂け倒れた楠木と、1500年来の宿敵の家の紋章入りの短剣。 北の公爵が瞬の可憐な姿に心を奪われ さらっていったのだという噂の源流は、実はその様子を目にした南の公爵家の私兵たちの早とちり――むしろ邪推――だった。 「南の公爵のただ一人の肉親を さらっていくとは、何と不敵な」 「瞬様の可憐なお姿に目が眩んでのことだろうが、無謀にも ほどがあるだろう」 「我等がここに来るまでに 既に相当の時間がかかっている。瞬様が一人になってすぐに さらわれたのだとしたら、もはや手遅れなのでは……」 「それは、瞬様が、北の残虐卑劣な野獣に汚されてしまったということか」 彼等は、すっかり 彼等から報告を受けた瞬の兄も、北の公爵が南の公爵の弟をさらっていく理由を他に考えることができず、これは北の公爵の邪恋が引き起こした略奪事件と、完全に信じ込んでしまったのだった。 「瞬は、自分から人に争いを仕掛けて、自ら敵を作るような子ではない。たとえ それが1500年来の宿敵の家の者でもだ。それが仇になったか」 「一刻も早く瞬様の御身を取り戻さなければ、最悪の事態を招きかねません」 「だが、安易に兵を動かすことはできん。北の公爵家と南の公爵家が衝突したら、へたをすると、国が内戦状態になるだろう。それに、瞬はあれでも、弓も槍も剣も、そんじょそこいらに転がっている騎士など足元にも及ばぬほどの使い手だ。単身囚われたとしても、我が身を守るくらいのことは――」 「ですが、瞬様は お優しい心の持ち主で、よほどのことがなければ 人を傷付けることなどできぬ お方。対戦者の命を奪わず怪我を負わせることもなく勝利を得ることのできる馬上試合と 実際の戦いは違います」 「それは承知している。俺が案じているのは、敵を傷付けぬため、我が身を汚されぬため、瞬が自らの命を断つようなことがあるのではないかということだ」 「……」 当主の懸念を聞いて、南の公爵家の家令が黙り込んでしまったのは、それが大いにあり得ること――と考えたからだったろう。 「ともかく、実際に兵を動かすかどうかは、北の公爵家の出方を見て決断することにして、兵の招集と武装だけは命じておきます」 頬を強張らせた家令が、南の公爵の首肯を確かめて、南の公爵家の私兵たちに武器の手入れと待機を命じたのが、瞬が氷河の城に身を寄せることになった翌日。 南の公爵家が着々と軍備を整えていることを知った北の公爵家から、『両家が武力衝突することで引き起こされる事態がどんなものかを冷静に考えることを、北の公爵は南の公爵に希望する。ご令弟は当家にて丁重に遇し、つつがなく お過ごしである』と警告する使者が 南の公爵家にやってきたのが、更に その3日後。 その警告を、暗に『こちらには人質がいる』と脅しをかけるものと解した南の公爵は、烈火のごとく怒り狂うことになったのである。 |