「おまえの兄は、おまえを よほど大事に思っているらしい。武力をもって おまえを奪還することも辞さない覚悟で、朱の宮に兵を集めているようだ」
氷河にそう言われて、瞬は真っ青になった。
瞬は、自分が宿敵の家に身を寄せることが それほどの大ごとだとは思っておらず、これほどの事態を招くことになるとは、なおさら思っていなかったようだった。
瞬にしてみれば、“親切な人”の厚意に甘えて雨宿りをした先が たまたま宿敵の城だったというだけのことなのだから、それは至極当然のことだったろう。
瞬が その後も氷河の城に留まり続けたのも、瞬の意思ではなく、氷河の意思によるものでもなく、言ってみれば やむにやまれぬ仕儀だったのだから。

「兄さんが兵を……それは本当ですか」
震える声で、瞬が尋ねてくる。
瞬の青ざめた頬、自分のせいで生じた事態に怯え震える声には、氷河も同情したが、彼は瞬に頷く以外のことはできなかった。
「残念ながら本当だ。両家が武力で衝突することになれば、国が乱れ、民が難儀することはわかっているだろうに。最初は、これみよがしに兵を招集することで こちらを威嚇することが目的なのかと思っていたのだが、どうやら本気で戦闘を開始することも考えているらしい。いずれにしても、こちらも悠長に構えていることはできなくなった。おまえの兄が ここまで直情的な男だったとは、全く想定外だったな」

氷河に 兄の軽挙を責められた瞬が、つらそうに眉根を寄せる。
南の公爵が兵を集め攻撃の準備をしているという現実の前には 何を言っても無意味──ということはわかっているのだが、それでも兄の気持ちを伝えないわけにはいかない。
そういう目をして、瞬は氷河の顔を見上げてきた。
「兄さんは――」
「それほど おまえを大切に思っている」
それだけのことなのだと──南の公爵は 都を戦乱の巷とすることの愚かさを承知していないわけではなく、彼はただ それほど彼の弟を大事に思い、その身を案じているだけなのだと──そして、その事実を北の公爵が承知していることを、氷河は、瞬に、瞬のために知らせてやった。
もちろん“それだけのこと”のために、本気で戦闘の準備を始められてしまっては、氷河としても大いに困るのであるが。

南の公爵の暴挙をたしなめる者は南の公爵家にはいないのか、いないとしたら、それは南の公爵がそれほどの暴君だからなのか、あるいは南の公爵家の者たち全員が、瞬を奪還するためになら この程度のことは致し方のないことと考えているのか――。
後者のような気がして、氷河は複雑な気分になった。
もし自分が瞬の兄であったなら、自分も瞬の兄と同じことをしてしまうだろうと思えるせいで、氷河は この事態における悪者は自分の方であるような気がしてならなかったのである。

北の公爵は、南の公爵の真情を 承知し理解している──。
それが事態の収拾にどんな役にも立たないことはわかっているのだろうが、瞬は氷河のその言葉を聞いて、僅かとはいえ心を安んじたようだった。
瞬が、小さな溜め息を、氷河の前で漏らす。
「はい……。僕たちは早くに両親を亡くして……僕は 兄に育ててもらったようなものなんです。でも、兄さんはとても責任感の強い人でもあるので、僕、まさか兄さんが こんなふうに肉親の情に流されることがあるなんて、考えてもいなかった……」
「俺も、俺ほど おまえを愛し必要としている男は他にいないと思っていたんだが……」
「え?」
「いや」

だから、瞬を宿敵の城に引きとめておくことも許されるのだと、氷河は勝手に決めつけていた。
だが、どうやらそうではなかったらしい。
瞬を愛し必要としている人間は、北の公爵の他にもいる。
もしかしたら南の公爵家の者たちは誰もが、多かれ少なかれ そういう思いを抱いているのかもしれない。
複雑な気持ちで、氷河は そう思った。

「事の発端は、俺がおまえの身の上も確かめずに この城に連れてきてしまったことにある。俺の軽挙のせいで、国を内線状態にするわけにはいかない。残念でならないが、俺は、おまえを兄の許に戻してやらなければならないようだ。できるだけ穏やかに――武力での衝突なしに」
「本当のことを言えばいいだけです。氷河は、雨の中で難儀していた どこかの子供を、親切心から助けただけだと」
「親切心というより酔狂だったんだが……。いや、まあ、それが事実なんだが、その事実が、俺たち以外の者には“あり得ないこと”であるらしい。おまえが何者なのかを知らなかったということくらいまでなら信じてもらえるかもしれないが、下心なしに おまえをこの城に連れてきたという主張には無理がある。無理があると、おまえを拾った当人でなかったら、俺でも思っていただろう。おまえは綺麗すぎるんだ。俺がおまえの美しさに目が眩んで 自分の城にさらっていったのだと、誰もが信じている。都の噂好きのスズメ共だけでなく、この家の者たちでさえ、そう信じている者がほとんどだ。まして南の公爵家の者たちがどう考えるか──親切心などという言葉は、見苦しい言い訳をするなと、鼻で笑われるだけのものだろうな」
「そんな……」
「おまえが こんなに可愛らしくなければ よかったのだろうが――」

本当に傍迷惑な姿だと思いながら、氷河は その手で瞬の頬に触れた。
姿より傍迷惑で、姿より危険な 瞬の澄んだ瞳が大きく見開かれ、そして、氷河の顔を見詰めてくる。
正面から視線が合い、逸らすことができなくなり、氷河は まるでメデューサに睨まれた海魔のように、その動きを封じられていた。
幸い、まもなく瞬が 恥ずかしそうに その瞼を伏せてしまったので、氷河は瞬の瞳の魔力から解放され、自由を取り戻すことができたのだが。

「……僕、北の公爵は、悪魔のように冷たくて残酷で醜い人だと言われていたんです。北の公爵が氷河みたいに綺麗で優しい人だとは思ってなかった。ごめんなさい」
「謝ることはない。俺も、1500年来の因縁を持つ宿敵だというのに、おまえのことも、おまえの兄のことも よく知らなかったからな。俺は、南の公爵家の当主は 鬼のように激しやすく攻撃的で残虐で、情や優しさなど持ち合わせていない男だと思っていた。そう聞かされて育ったせいもあるが」
「そんなことありません! 兄さんは誰より優しくて、温かい心を持っている人です!」
それまで どこか ためらいがちで遠慮がちだった瞬の声が、ふいに強く断固としたものになる。
実の弟を宿敵の家の者に さらわれて泣き寝入りしていたのでは南の公爵家の威信に関わるという問題もあるのだろうが、一人の少年のために内戦を起こすことも辞さないという南の公爵の覚悟は、たとえそれが見せかけの脅しにすぎなくても、彼が彼の弟を軽々しく思っていないということ。
それほど兄に愛されている瞬が、兄を愛していないはずはなく──瞬が向きになって兄を弁護する様を見て、やはり 瞬は兄の許に返すしかないのかと、氷河は苦い気持ちで思ったのである。

「もし、その兄と二度と会うことができなくなったら……いや、兄に会いたいか」
「はい」
瞬が、全く ためらう様子を見せず、すぐに頷く。
そして、全く ためらう様子もなく すぐに、瞬は、
「でも、氷河とも一緒にいたいの。僕、欲張りなんでしょうか」
と、言葉を続けた。
「俺はもっと欲張りだ」
未練のように そう呟いて、氷河は唇を噛みしめた。
今は、その未練を断ち切らなければならない。
氷河は、瞬の頬に触れていた手を 無理に我が身の方へ引き戻したのである。

国で一、二を争う力を持つ公爵家の当主として、氷河は、現状を無策に眺めているわけにはいかなかった。
この非常事態を治めるための方策は既に練られ、動き始めていたのだ。






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