「今朝、南の公爵家の百合の指輪を当家に渡すなら、それと引き換えに おまえを返してやってもいいと、おまえの兄に取り引きを持ちかけた。すまんな。我が家にも体面というものがあって、無条件で おまえを返すわけにはいかないんだ。今 そんなことをしたら、北の公爵家は 南の公爵家の武力に恐れをなしたのだと、国中の者に思われることになる。両公爵家の一方の力が軽んじられることは、両公爵家の力の均衡によって保たれてきた この国の平和を乱す原因にもなりかねない」
瞬に 現状を打開するために講じた方策の説明をしながら、面倒だと──本当に面倒だと、氷河は思っていた。
家の体面も 国の平和も考慮することなく、『俺の側にいるために、兄を捨てる気にはならないか』と瞬に訊くことができたら、どれほど面倒がなく迅速かつ単純に結論に至ることができるだろうかと、心から思う。
もっとも瞬の兄は かなりの強敵のようで──そう瞬に尋ねることで、氷河が本当に、面倒がなく迅速かつ単純に 望みを叶えることができるかどうかというと、北の公爵は かなり分が悪いようだったが。

「あれは、南の公爵家が建国の王から授かった大切な指輪です。あれがあるから南の公爵家は始まった。南の公爵家の存在意義と誇りを具現したものといってもいい。それを放棄しろと言われているも同然の条件に、兄が応じるわけが──」
国の平和を乱したくないと言いながら、北の公爵は、その取り引きに南の公爵家が応じないことを 戦いの火蓋を切る理由にしようとしているのではないか――。
そう、瞬は疑ったらしい。
兄がその取り引きに応じることは それほどあり得ないことだというのが、瞬の判断だったのだろう。
が、氷河自身は、南の公爵は迷いもせずに即座に その条件を飲むだろうと考えて、瞬の兄に その取り引きを持ちかけたのである。
その確信の根拠は、自分が瞬の兄だったなら、必ずそうするから。
もちろん、氷河の判断は正しかった。

「おまえの兄は、すぐに応じてきた」
「えっ」
「国を乱すことなく、おまえを取り戻すことができるのなら、おまえの指に合わない指輪など捨てても構わないと」
「兄さんが……」
兄のせいで――自分以外の男のせいで――瞬の瞳が潤む様など見たくなかったので、氷河は ほとんど間を置かずに言葉を続けた。
「おまえへの、それほどの愛情を示されては、こちらも卑劣な真似はできん。おまえと指輪の交換という条件は、あくまでも我が家の体面を保つための詭弁で、無事に取り引きが済んだら、指輪はすぐに南の公爵家に返す」
「氷河……」
「その代わり、兄の許に帰ったら、兄や家人たちに働きかけてくれ。二つの公爵家が対立し合うことは無意味で無益だと。おまえを無事に朱の宮に返し、指輪も返せば、おまえの兄も、少しは怒りを和らげ、両家の関係改善を考えてくれるようになるかもしれん。俺たちも、いつかまた会うことができるようになるかもしれない」

願った通り、氷河は、兄のために涙で潤む瞬の瞳は見ずに済んだ。
瞬の瞳が、兄のためではなく、氷河が口にした言葉のせいで潤み始める。
「いつか……? いつかって、いつ?」
不安そうに尋ねてくる瞬の瞳が 僅かに赤味を帯びているのは、兄の愛情の強さ深さに打たれたからではなく、“いつか”が来なければ二度と会えないかもしれない二人の未来を考えることが つらいから――だったろう。
「わからん。数日後かもしれんし、10年20年先のことかもしれん」
氷河が瞬に出会ってから今日の日まで、僅かに10日余り。
しかし、北の公爵家と南の公爵家の間には1500年の時が作った深く広い大河が横たわっている。
その大河を乗り越えることが容易なことか困難なことなのか、それは今の氷河には わからないことだった。

「いや! 僕、そんなのはいや。兄さんには会いたいけど、それで氷河に会えなくなるなんて、僕、絶対に――」
瞬が、氷河の心許ない答えを聞くなり 急に取り乱し、首を左右に振って、悲鳴のような声で氷河に訴えてくる。
その様が、大切な玩具を奪われそうになっている子供の真正直な駄々に似ていることが、氷河の心を苦くした。
『絶対にいや』だと、もちろん氷河も思っていた。
だが、そう思っていることを、氷河は瞬に告げることができなかったのである。
北の公爵が なぜ『絶対にいや』だと思っているのかを、瞬は知らずにいる。
瞬は北の公爵と同じ思いで『絶対にいや』だと言い張っているのではないのだ――。

「氷河は、そんなに僕を兄さんの許に返してしまいたいの! 僕を追い払いたいの! いやだよ! 僕は氷河と離れたくない。ずっと一緒にいたい! できるはずだよ。だって、氷河は悪意や害意をもって 僕をここに連れてきたんじゃないし、僕たちは憎み合ってもいないんだから! 他の人が勝手に変な誤解をしているだけなんだから!」
「俺の決意を鈍らせないでくれ。俺だって、一日たりとも、おまえと離れていたくはない」
「氷河……だったら……だったら、僕を側に置いて……!」
「そうできないことを、おまえ知っているだろう。南の公爵は、そうしようと思えば、今すぐ兵を動かすことができる。おまえが戻らなければ、血気に逸っている南の公爵家の兵たちは、おまえの兄の意思も無視して暴徒と化しかねない」
「……」
瞬が、唇を噛み、瞼を伏せる。
瞬は、自分の大切な玩具しか目に入らない子供ではない。
そうできないことを、瞬は知っているのだ。

「おまえが こんなに傍迷惑なほど可愛らしくなかったら――」
事態は また違ったものになっていただろうか。
おかしな噂は立たず、南の公爵家にくみする者たちも、瞬を奪われたことに これほど激怒することはなく――むしろ二人の出会いは両公爵家の対立を解消する いい機会になっていたかもしれない。
そう思いはするのだが、だからといって、瞬に可愛らしくなくなってほしいとは願えない。
この可愛らしさが この地上から消えることには耐えられない。
それが、氷河の、矛盾した本音だった。

「親切心を親切心のままにして、おまえとの間に友情を育めたらよかったんだが……それは不可能なことだった」
「なぜ、不可能なの! 僕が氷河と敵対している家の人間だから !? 」
氷河の本音を全く わかっていない瞬が、瞳に涙をにじませ、つらそうに、北の公爵を問い詰めてくる。
本当に つらいのは、だが、氷河の方だった。

その つらさに耐え兼ねて――氷河は、瞬を抱きしめたのである。
強く抱きしめ、そして口付けた。
それが友情のキスでないことは、さすがの瞬にもわかったらしい。
睫毛に涙の雫を載せたまま 大きく見開いた瞳に、瞬が北の公爵の姿を映している。
「不可能だった。おまえが可愛らしすぎて。このまま おまえをこの城に置いておけば、いずれ俺は、下種な噂通り、自分の気持ちを抑えられなくなり、おまえを俺のものにしてしまうだろう。そうなれば、俺はおまえの兄と正々堂々と渡り合えなくなる」
「氷河……」

「両家の間で、もう話はついているんだ。ここで約束を反故にしたら、両家の和解の機会は失われ、両家の対立は更に激化することになるだろう。へたをすると、そのせいで内戦が始まり、内戦が始まれば国は荒廃する。それは避けなければならない。今は、おまえをさらわれたことに いきり立っている南の公爵家の者たちの気持ちを静めることが最優先課題なんだ。おまえも、二度と兄に会えなくなったら つらいだろう」
「それは……でも……」
「いつか、両家の無意味な対立がなくなったら、俺たちはきっと また会える。……いい友人として」
自虐的に そう言って、氷河は、北の公爵に恋をしているわけではない瞬のために無理に微笑を作ったのだった。






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