「おまえに さらわれるのも楽しそうだが――瞬、俺と駆け落ちしないか」 瞬の悲痛な訴えと冷静な決意を聞いていたらしく、その男の瞳は嬉しそうに明るく輝いていた。 「氷河……!」 もちろん それは、瞬がこれから さらいに行こうとしていた北の公爵その人の声で、氷河が樫の木の枝からバルコニーに飛び移ってくると、瞬は即座に、恋を知らぬ従弟の目の前で、遠慮も ためらいもなく氷河の首にしがみついていったのである。 「氷河……って、これが北の公爵なのか? なんで、北の公爵が昼日中に南の公爵家の城の中にいるんだよ! どうやって入り込んだんだ!」 そう尋ねたのが瞬で、氷河がヴェローナのロミオだったなら、星矢は『恋の翼の力を借りて』という答えを手に入れていただろう。 そんなことは、今更尋ねなくても知っていた瞬は、全く別のことを彼の恋人に言い募っていた。 「来てくれて嬉しい……嬉しい……! 僕、氷河に会えないのが苦しくて、だから氷河を さらいに行こうと思っていたの。氷河と一緒にいられないなんて、もういや! そんなの、あと1日だって耐えられない!」 「俺も――格好をつけて、おまえを兄の許に返したものの、いつやってくるか わからない“いつか”など待っていられない自分に気付いて――。俺がおまえに会いたいのは、“いつか”ではなく今だ。今 おまえと共にいられないと、俺は死んだも同然、何をすることもできない腑抜けになる。俺が生きているには、どうしても おまえが必要だから……瞬、俺と一緒に来てくれるか」 「もちろんだよ!」 熱烈に恋し合う二人は、勝手にどんどん話を進めていく。 しかし、そこには、二人の駆け落ち計画を諸手をあげて歓迎するわけにはいかない人間が約一名 居合わせていたのである。 「ちょ……ちょっと待てって。なに言ってんだよ! 駆け落ちだあ !? 瞬が北の公爵んちに行ったら、また同じ騒ぎが起きるだろ! おまえ等、自分の立場ってもんがわかってんのか!」 星矢に怒鳴りつけられた氷河が、いったい このうるさいものは何だという顔をする。 しかし、氷河は、その うるさいものの存在をあっさり無視した。 代わりに彼は、極めて迅速に、その うるさいものの不粋な大声のせいで顔を曇らせてしまった瞬の心を安んじさせるための作業に取りかかった。 「安心しろ、瞬。俺は俺たちの立場をちゃんと心得ている。俺は、おまえをさらっていくとは言っていないだろう? そうではなく、駆け落ちしようと言っているんだ。おまえと離れて生きることは不可能と悟ってすぐに、俺は、これが北の公爵家と南の公爵家の問題でなくなるように、爵位を従兄に譲りたいと王家に申し出た。おまえに拒まれたら、その時はその時と覚悟して」 「僕が氷河を拒むなんて、ありえないよ!」 瞬のその言葉に、氷河が嬉しそうに口許をほころばせる。 そんな氷河を見て――間近で見て――瞬は おそらく氷河の倍も嬉しい気持ちになった。 「事情を聞いた女王陛下は、それなら王宮に駆け落ちしてこいと言ってくださったんだ」 「アテナ様が……?」 瞬の嬉しそうな顔を見て、氷河の笑顔が更に明るいものになる。 こうなると嬉しさの相乗効果で、へたをすると この国を内戦状態にしかねない深刻な問題を語り合っているというのに、氷河と瞬は微笑を消し去ることができなくなっていた。 長い冬のあとに ついにやってきた恋の季節に、互いばかりを見て 恋をさえずり合う二羽の小鳥のように、彼等は周囲を見ることができなくなっていたのである。 その場で、事態の深刻さに青ざめ、全身を強張らせているのは、恋を知らない瞬の従弟一人きりだった。 「俺たち二人が揃って家を捨ててしまえば、どちらが さらったも、どちらが さらわれたもなくなる。拳を振り上げても、その拳をどこに落とせばいいのか わからず、両家の者たちは おろおろすることしかできないだろうとおっしゃって、陛下は笑っていた」 北の公爵と南の公爵の実弟が、許されない恋を実らせるために王宮に駆け落ちし、女王の庇護下に入る。 となれば、二つの公爵家が攻め入る先は この国の王宮、その敵は この国の女王ということになるだろう。 両公爵家ほどの武力財力はなく、あるのは権威だけといっても、相手はこの国を統べる女王。 王家に戦いを挑めば、その者は、当然のごとく反逆者となる。 それ以前に、それが二人の合意の上の駆け落ちとなれば、噂好き 騒動好きの この国の民は、二人の恋を許さない両公爵家を悪者と見なして騒ぎ出すに違いなかった。 正義は、恋し合う二人の上にある。 地位も財も捨てて恋し合う二人の幸福を妨げる二つの“家”は邪悪なものと見なされ、その存在を糾弾されることになるのだ。 恋する人と離れていなくてもよくなる――その幸せで胸と頭がいっぱいの瞬は、その事実に気付いていなかった。 氷河は、気付いていて、それでも構わないと思っていた。 星矢は、女王のやり方に感心していた。 すなわち、これは、一つの恋を成就させると共に、強大な力を持つ両公爵家に押されて影の薄かった王室の権威を高めようとする女王の企みでもあるのだ。 二つの公爵家の下位にあった王家が、国の頂点に立とうとしている――。 しかし、それは、一つの国のあり方として、実に正しく真っ当なもので、むしろ この国は これまでのあり方がいびつで おかしかったのだ。 「しばらくは王宮の居候ということになるが――俺と一緒に来てくれるか」 「氷河と一緒にいられるのなら、王宮にだって地獄にだって!」 瞬の答えに迷いはなく、そうして恋し合う二人は、電光石火の早業で駆け落ちを完遂してしまったのである。 瞬は、 「兄さんやみんなには、僕のことは心配しないでって言っておいてね」 と、実にあっさりした伝言だけを星矢に残し、その恋人と共に 南の公爵の城から姿を消してしまったのだった。 北の公爵が、南の公爵の弟に恋をして駆け落ちし、王宮の女王の庇護を受けているという噂は、瞬く間に都中、国中に広がった。 恋の成就のため、そして、両家の武力衝突を避けるために、二人は中立の女王の許に飛び込み、女王は二人を庇護している――。 超大物同士の駆け落ちという前代未聞の大事件は、噂好き 騒動好きの国民に歓呼をもって受け入れられた。 そして、強大な武力財力を有する両公爵家は、にっちもさっちもいかない状況に追い込まれてしまったのである。 北の公爵家の紫龍が従弟の暴挙に呆れ疲れ果て、南の公爵が最愛の弟に二度と会えなくなる事態を恐れて、両家の仲裁を女王に申し出たのは、恋人たちの駆け落ちから5日後のこと。 かくして、1500年に渡る北の公爵家と南の公爵家の確執は、恋に理性と分別を奪われた一組の恋人同士の無謀によって、実に あっけなく瓦解してしまったのである。 最愛の弟を、よりにもよって男に奪われた瞬の兄が、その後も いつまでも氷河を いびり続けたのは、強大な力を持つ二つの公爵家の問題ではなく、あくまでも彼等の個人的な気持ちの問題だったろう。 Fin.
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