ブライスガウ地方の山岳地帯で、最近 山賊が 欧州を大混乱に陥れたナポレオンが失脚してから まもなく10年、欧州各国は その体制をほぼ旧に復し、あの混乱――恐怖のみならず熱狂と興奮をも含んだ混乱――の記憶は、人々の中で少しずつ薄らぎつつある。 もちろん、一人の男が舞台を下りたからといって、何もかも すべてがナポレオン戦争以前の状態に戻ったわけではない。 それではナポレオンという悪魔的英雄が この地上に出現した意味がない。 少なくとも欧州の人間は、『権力は生まれに伴うものではない』という事実を、砲兵士官あがりのナポレオンという男に教えられた。 この地上に 生まれながらの王は存在せず、生まれながらの奴隷も存在しない。 人は、その生まれの 知ってしまったら、知らなかった頃には戻れない。 そういう意味で、ナポレオンは 欧州各国の君主たちには忌々しい存在だったろう。 ロシア遠征失敗後のナポレオンの急激な凋落も当然のこと。 ナポレオンは、既存権力者の中に真の味方を持たなかったのだ。 ナポレオン失脚後、旧来の権力者たちは 速やかに自分たちの復権のための活動を開始した。 今では欧州は、ナポレオン戦争以前の落ち着きを ほぼ取り戻している。 ヒョウガの故国バーデン大公国も、ナポレオンを盟主とするライン同盟から オーストリア帝国を盟主とするドイツ連邦へ、着席するテーブルの名前こそ変わりはしたものの、ナポレオン戦争以前同様、一つの国としての主権を失うことなく欧州の一区画に存在し続けている。 今は欧州は 比較的 平和で静かだった。 ナポレオン時代ほどの大混乱が再び欧州の上に降りかかってくることはありえないであろうから、これからも欧州は“比較的”平和であり続けるだろう。 今は、欧州のすべての人間がそう思っている。 ヒョウガも そんな人間の中の一人だった。 あと20数年早く生まれていたらナポレオン率いるフランス軍相手に華々しい戦功をあげることもできていただろうに、平時に生まれてしまったばかりに、俺は うだつのあがらない小役人で一生を終えるのだ――。 そんなことを考えて鬱々と日々を過ごし、人生を楽しめずにいる人間の一人だったのである。 だからといって、偉い(だけの)者たちに おべんちゃらを言って出世を画策するほど 卑屈で勤勉な人間にもなれない。 ナポレオン戦争の末期、フランス軍への抵抗で華々しい軍功をあげて将軍から元帥の地位に進み、今ではバーデン大公国陸軍大臣の座に収まっている叔父を、ヒョウガは心から羨ましいと思っていた。 その叔父からの、彼の私邸ではなく大公宮の大臣執務室への呼び出し。 楽しい話である確率は30パーセント、うんざりする話である確率が70パーセントと踏んで、ヒョウガは叔父の前に立ったのである。 バーデン大公国陸軍大臣であるヒョウガの叔父は、両親を早くに亡くしたヒョウガには親代わりのようなもの。 彼は、生きることを楽しめていない甥を 何かと気遣ってくれる、ヒョウガの唯一の肉親といっていい存在だった。 その叔父が わざわざヒョウガを大臣の執務室にまで呼び出した用件。 それは、今日も今日とて楽しくなさそうな顔をしているヒョウガに新しい任務を与えてやろうという、実に有難いものだった。 「おまえを呼んだのは他でもない。少しは やり甲斐のある仕事をおまえに任せてやろうと思ってな。もっとも 用意できる敵はナポレオンとまではいかないが。だが、まあ、大公宮の資料室で我が国の戦史編纂のための資料と格闘しているよりは ましな仕事だろう。最近では、戦場での環境衛生、医療設備、兵糧の記録にまで首を突っ込んでいるそうではないか。お偉方に世辞を言う術でも学んだ方が出世の芽はあるぞ」 バーデン大公国陸軍運用政策局資料室勤務の准尉に、バーデン大公国陸軍大臣は そう言った。 うだつの上がらない甥をからかうような発言内容のわりに真面目な顔で。 ヒョウガが、不真面目ではないのだが投げ遣りな声と表情で、そんな叔父に答える。 「俺は、ガキの頃から戦争ごっこが好きだったんだ。内政にも外交にも教育にも経済にも――戦争戦闘に関わりのないことには全く興味がない。軍営地の環境衛生や 戦地での兵卒用献立でも研究していた方が ずっとましだ」 好きで興味があり、勉強熱心でもあるせいで、ヒョウガは、兵法や戦闘技術、武器に関することのみならず、戦場での建築、衛生、医療、食料関係のことまで、出世の芽の養分には なり得ない知識なら それぞれの分野の専門家になれるほど過剰に養っていた。 好きなことにしか熱心になれない自分の性癖を自嘲気味に語ってから、ヒョウガが僅かに肩を緊張させる。 「で、敵を用意するということは、身体を動かせる仕事か?」 「もちろんだ。ブライスガウの山賊退治。おまえの好きな戦争ごっこができる、かもしれないぞ」 「かもしれない?」 山賊に投降を促し、彼等がその勧告に素直に従うようなら、確かに戦闘にはならないかもしれないが、仮にも無頼の山賊が そんなしおらしい芸を見せてくれるとは思えない。 当然、戦闘は必至。 そういう仕事なのであれば、指揮官としてではなく一兵卒としてでも ぜひ参加させてほしいと意気込んだヒョウガに、バーデン大公国陸軍大臣は、突然 ヒョウガの嫌いな外交(国の体面)の話を始めてくれた。 「おまえも知っての通り、現在の我が国はドイツ連邦の一員だ。オーストリア帝国は でかいツラをして、プロイセンは油断のならぬ目で、連邦内の小国の併合を虎視眈々と狙っている。我が国のような小国は、そんな大国共に僅かでも隙を見せるわけにはいかない。奴等には、バーデン大公国は磐石であると示しておかなければならないんだ。当然、磐石の我が国の中に山賊などという反体制的な集団が存在してはならない」 「だから、退治するんだろう?」 「違う。我が国には山賊などというものは存在しない。過去はさておき、現在と未来には。存在しないものを退治することはできない。ゆえに軍隊も派遣できない」 「軍を派遣できない? じゃあ、どうやって退治するんだ」 対外的に『我が国に山賊はいない』と言い張るのは結構だが、いるものはいるのである。 いるものを いないものとして退治する。 それは、生きている人間を幽霊だと言い張って聖書の文句を唱え続けるような行為になるのだろうか。そんな攻撃に、生きている人間は いかなる打撃も受けないだろう。 幸いにも(?)、陸軍大臣は、偽の幽霊退治の方法まで ヒョウガに考えろと言うつもりはなかったらしい。 存在しないはずの山賊退治の おおよその筋立てが、彼の中には既にできていたようだった。 「軍を派遣することはできない。だから、おまえ一人で山賊を退治してこい。その間、おまえの軍籍は抜く。おまえの山賊退治に際して、おまえに与えられる身分は、民間から徴収された臨時の軍医の身分だけだ」 「医者の振りくらいはできないでもないし、資料室を出られるのは有難いが、俺一人で山賊退治だと?」 若い頃には この叔父も、戦地では随分と無茶な作戦を立案遂行していた――ということは、ヒョウガも資料室の資料で知っていた。 それらの作戦が、一見すれば無茶に見えるだけで、その実 相当の成功率が見込める作戦だったということも。 まぐれあたりは そう続くものではない。 叔父の立てた作戦は 視点や発想が奇抜なだけで、どれも堅実かつ確実なものだった。 その事実を知っているだけに、ヒョウガは、突然 正真正銘の“無茶”を言い出した叔父に呆れ果ててしまったのである。 だが、バーデン大公国陸軍大臣は真顔だった。 「なに、山賊と言っても、山に慣れた荒くれ男たちが2、300人ほど徒党を組んでいるだけだ。正式に軍隊の訓練を受けたわけでもない。とはいえ、かなり厳しく統率された組織になっているようではあるがな」 心底から呆れているヒョウガに、彼はなおも言い募った。 たった一人で300人の山賊を退治しろという無理難題を、可愛い(はずの)甥っ子に。 「山賊たちは、反体制の同志とその家族とで、ブライスガウの山の中で小さな村を営んでいるらしい。彼等が襲うのは、主に軍隊の生活物資運搬の部隊。あの辺りは、フライブルクの町からフランスやスイスとの国境警備駐屯地への物資運搬の通り道だからな。情けないことに 我が軍の補給部隊は山賊共に襲われ放題、手も足も出ずにいる」 「ちょ……ちょっと待て。勝手に話を進めるな。いくら何でも俺一人で山賊300人を捕らえるのは無理な話だ。全盛期のナポレオンにだって無理だろう。俺はスーパーマンじゃないんだ」 陸軍大臣が、とりあえず甥の反論を聞いてやろうという態度で、大きな椅子の背もたれに上体を預ける。 大臣に命令撤回するつもりがないことは その態度を見ただけでヒョウガにも わかったのだが、ヒョウガは それでも言いたいことは言っておきたかった。 「だいいち、ブライスガウは、反乱が起こらないのが不思議なくらい、大公が過酷な対応をしている地方だ。確か、あの地方だけ 家屋税と塩の消費税が異様に高くて、その上、至るところで無意味な通行税の支払いが義務化されている。山賊だけでなく 一般人だって、大公や体制側に対して好感情は持っていないだろう。他の地方には寛大なだけに なおさらだ。ブライスガウで大公の人気は最悪だと聞いているぞ。そんなところに大臣の命を受けた者が飛び込んでいったら、俺は清国の故事に言う四面楚歌状態になる」 「そういう土地だからこそ、軍を出すことができないんだ。山賊退治のはずが、住民を刺激して本当に反乱を誘発することになりでもしたら事だからな」 ヒョウガの反駁が、逆に 陸軍大臣の命令の必然性を補強するものになる。 忌々しくて唇を引き結んだヒョウガに、大臣は 腹が立つほど にこやかな笑みを投げてきた。 「おまえ一人で山賊を全部 捕えろというのではない。賊が営んでいる村に侵入し、内情を探り、そして、警察の――軍隊ではないぞ、あくまでも警察の――山賊逮捕の手引きをする。それがおまえの仕事だ」 「ああ……要するにスパイか」 それならそうと最初に言えと、ヒョウガは胸中で叔父に毒づいたのである。 それは確かに一人でできる仕事だった。 そして、戦争ごっこができるかどうかは、入手できた情報と状況次第。 『戦争ごっこができるかもしれない』という言い方は、そういう意味だったらしかった。 「ブライスガウの賊は、軍の補給部隊を襲って略奪を繰り返しているが、自分たちのものにするのは武器のみらしい。その武器も どこぞで売りさばいて金に替えているようだが、ともあれ略奪品のほとんどは、近隣の村々の者たちに分け与えている。あの辺りの者たちは体制側にいじめられ続け、生活に困窮している者が多いからな。山賊たちを庇う者が多いんだ」 「大公は、なぜ ブライスガウにだけ厳しく当たるんだ」 大公がブライスガウへの統治方針を改めれば、山賊たちは困窮する者たちの味方として見られることはなくなり、賊を庇う者もいなくなるだろう。 そうなれば、山賊たちも存在意義を失い、自ら消滅していってくれるかもしれない。 山賊退治より大公が治世の方針を改める方が正しい対処法だろうと、正直 ヒョウガは思ったのである。 バーデン大公国陸軍大臣は、甥の質問には答えなかった。 そして、戦争ごっこをしたい気持ちの強いヒョウガも、それ以上は 大公の間違いを強く主張することはしなかった。 「山賊の村の内情を探ってきてくれ。くれぐれも無駄な殺生はするな。無理にでも――おまえの好みでなくても、無条件の投降が最善だ」 「……」 やはり、あまり気が進まない。 それでもヒョウガが叔父の命令に従うことにしたのは、戦争ごっこのできる可能性が少しでもあるのなら、その可能性に賭けてみようという気持ちがあったからだった。 そして、それよりも何よりも、ヒョウガは日がな一日 軍部の資料室にこもっている毎日に飽き飽きしていたのである。 |