「おまえのジャンクフード好きは、不治の病なのか」
星矢の部屋のテーブルの上にポテトチップスの袋があるのを見て、“俺様”こと氷河は、嫌そうな顔になった。
その無礼な言い草に、部屋の主は もっと不愉快な気分になったが。
「文句があるなら、さっさと出ていってくれて構わないんだぜ。俺は、今日知り合ったばかりの毛唐を家にあげてやる義理も義務もないんだからな! 瞬が 話を聞いてあげようっていうから、仕方なく――」
「瞬は本当に親切で優しい。――この家には客間はないのか」
「客間ってのは、お客サマを通す部屋だろ。あんたは客なんかじゃねーよ!」
「それはそうだ。おまえに他人行儀に客扱いされても 居心地が悪くなるだけだろう」

『おまえは客間に通すような大切な訪問客ではない』と告げた星矢の嫌味に、“俺様”は気を悪くした様子は見せなかった。
むしろ その対応が当然で適切というかのように、深く頷く。
そして彼は、口の開いたポテトチップスの袋が載っているガラステーブルの脇に、部屋の主に勧められるのを待たずに、どっかと あぐらをかいた。
脚が長すぎるせいで膝がテーブルにぶつかり――あぐらをかいたまま、10センチほど後方に場所を移動する。
遅れて 星矢と紫龍がそれぞれの場所に着座し、一辺だけ空いた場所に瞬が座ろうとしたのだが、星矢はそれはやめさせた。
そして、名ばかりの勉強机用の椅子に座るように指示する。
それはもちろん、瞬とストーカーの間には相応の距離を置くべきだと用心しての処置だった。
氷河は星矢の指示が不服そうだったが、不服そうな顔をしただけで、文句を言うようなことはしなかった。
どこに陣取るにしても、8畳ほどの狭い部屋でのことなのだと、彼は自分を納得させたのかもしれない。

「信じるか信じないかは、話を聞いてから判断するが、とりあえず、事情を聞こう。異世界から来たと言っていたが、あれはジョークか? それとも本気で言ったのか?」
それぞれの落ち着き先が決まったところで、紫龍が早速 議事進行作業に取りかかる。
まず その点をはっきりさせなければならない。
そう考えたのだろう紫龍の質問に、氷河は あろうことか全く笑わずに頷いてきた。
「あいにく、この非常事態にジョークを言っていられるほど、俺は大物じゃないんでな」
「十分 大物だぜ。瞬が甘いのをいいことに、図々しく他人の家にあがりこみやがってよ! 自覚がないなら、なおさら大物だ」
星矢の判断は正しいものだったろう。
部屋の主の嫌味を、氷河は実に大物らしい堂々とした態度で聞こえなかった振りをした。
そして、涼しい顔で“非常事態”の説明を続ける。

「俺には恋人がいると言っただろう。俺の恋人は、何と言ったらいいか――つまり、次元を超えることのできる道具を持っているんだ。俺が、扱い方も知らないのに それを弄んでいたら、何がまずかったのか、この世界に飛ばされてしまった。突然 周囲の景色が一変したんで、本当にびっくりしたぞ。いったい ここはどこだと辺りを見回したら、どこかで聞いたことのある名前の学校があって、妙な予感を覚えた俺は そこに数時間ほど立って様子を見ていたんだ。そうしたら 瞬が――瞬くんが校門を出てきた。当然 俺はすぐに そのあとを追いかけたんだ。声をかけていいのかどうか、わからなかった。瞬は――瞬くんは、俺が見たことのない制服のようなものを着ていたから、妙だと思った」
「次元を超えることのできる道具って、あんた、タイムマシンや どこでもドアがあるみたいな未来から来たのかよ?」
「いや、おそらく全くの異世界、おそらく異次元世界というところだ。この世界の未来というのではない。俺のいた世界には、今のおまえらと同じ姿をしたおまえらがいるからな」
「……」
それは確かに、次元が同じで時間軸が異なる未来の世界ではないだろう。
時間軸が同じで次元が異なる世界――ということになる。
この大物が嘘をついているのでなければ。

「俺を元の世界に戻せるのは、おま――君しかいないと思うんだ。瞬――瞬くん」
「なんで、そうなるんだよ!」
SFは嫌いではない。
異世界から来たという彼の申告を信じることに、星矢は さほど拒絶感はなかった。
この大物が、瞬に近付くために大嘘をついているのでなければ。
だが、彼が真実を告げている確率と 嘘をついている確率では、圧倒的に後者の確率の方が大きい。
星矢は そう判断しないわけにはいかなかったのである。
そもそも氷河を元の世界に戻すことのできる人間が、なぜ瞬でなければならないのか。
瞬は男子高校生にあるまじき容姿の持ち主ではあるが、それでも ごく普通の男子高校生である。
SF的な特殊能力など持っていないのだ。
もちろん、星矢はその点を鋭く突っ込んだ。
それまで立て板に水で大嘘をついていた氷河が、初めて言葉を淀ませる。

「それは つまり……俺をここに飛ばした 次元を超えることのできる道具の持ち主が瞬だからだ。あれは瞬にしか扱えない」
「……」
氷河に そう言われて、星矢の思考は少し混乱した――否、大いに混乱した。
この大物ストーカーは、次元を超えることのできる道具の持ち主を“俺の恋人”と言っていた――ような気がする。
それとも、それは単なる聞き間違い、あるいは、本当に そんなセリフを聞いたような気がするだけのことなのだろうか。
星矢は、ひどく嫌な気分で、氷河に尋ねることになったのである。
「あんたの世界の瞬は女なわけ?」
と。

氷河は、一応、答えをためらった。
そして、
「俺の瞬は、俺の世界の誰よりも強く優しく美しい人間だ」
という、答えになっていない答えを返してくる。
答えになっていない答え。
だが、星矢には それで十分だったのである。
氷河は、『俺のいた世界の瞬は女だ』と答えなかった。
それが氷河の答えなのだ。

「つまり、あんたの世界で、あんたの恋人は瞬で、その瞬は男で、この瞬そっくりなんだな」
「……そうだ」
「だから、瞬ならどうにかできるだろうと、あんたは考えた」
「ああ」
真顔で頷く大物ストーカーの正気を――というより、常識を――星矢は疑うことになったのである。
そんな話を聞かされて、『じゃあ、瞬。この気の毒な人の力になってやれよ』と言う馬鹿がどこにいるだろう。
少なくとも星矢は そんな馬鹿ではなかった。

「異次元から来たんでも何でも駄目! 危ないだろ! 瞬はその趣味はねーの! 男に追いかけまわされ続けて、瞬は むしろ男嫌いなんだ!」
「星矢、僕、別に男嫌いなわけじゃ……」
「おまえは黙ってろ!」
それがストーカーでも、狂人でも、大嘘つきでも――へたをすると、犯罪者でも、親の仇でも――、『困ってるんです。助けてください』と すがりつかれれば 嫌とは言えない お人好しの瞬に、こんな狂人の相手をさせておくわけにはいかない。
星矢は瞬を頭から怒鳴りつけた。
途端に、瞬が、しおれた青菜のようにしょんぼりする。

「ああ、瞬、しおれるな。星矢はおまえのことを心配しているだけなんだ。星矢、おまえも。瞬を怒鳴ってどうするんだ。少し落ち着け」
紫龍に自重と自制を促されて、星矢は、悪いことをしていないのに大人に注意された子供のように 口をとがらせた。
だが、紫龍の言う通り、瞬をへこませようとしていたわけではなかった星矢は、瞬の しおれた様子を見て、自分の激昂を反省し、そして、少し冷静になった。
「あんた、嘘ついてるんじゃねーか? あんたの世界には、瞬がいて、紫龍がいて、一輝がいて、俺がいる。でも、こっちの世界には、瞬と紫龍と一輝と俺だけ。あんたがいないなんて変じゃん。あんたの話がほんとなら、この場に この世界のあんたがいてしかるべきだろ」
「なぜ俺がいないのかは、俺には わからん。俺たち五人はいつも一緒だったのに――。まあ、一輝はいつも そこいらへんをふらふらしていて、いないも同然だったが……」

一輝の放浪癖は、ストーカーの世界でも同じらしい。
妙なところで符丁が合うのが気になったが、しかし、氷河の説明を鵜呑みにすることは 星矢にはできなかった。
氷河は氷河で、星矢に 猜疑心に満ち満ちた目を向けられても、自分は異次元世界から来たという主張を撤回する気はないらしい。
そして、自分を元の世界に戻す力を持っているのは瞬だけだという考えを放棄する気も、彼はないようだった。
「俺は、俺の仲間たちのところに戻らなければならない。俺の瞬のところに戻らなければならない。そのための道を開くことができるのは君しかいない。その機会はいつ来るかわからない。俺はその機会を逃したくないんだ。だから、俺が君の側にいることを許してくれ」
「あの……」
ひとつところに落ち着いていられない一輝の放浪癖を知っている氷河は、困っている人を見捨てられない瞬の性癖も知っているらしい。
彼は、星矢にではなく瞬に、自らの窮状を訴え、救済を求め始めた。

「どうせ、一輝はいつもどこかを ふらふらしているんだろう? 俺が君の側にいても、目くじらを立てる奴はいないはずだ」
「俺が立てるぜ。瞬は俺の親友だ。毛唐に変な真似されてたまるか」
いつのまにか ちゃっかり瞬が腰掛けている椅子の前に移動し、瞬の顔を見上げ、見詰めている氷河に、星矢がきっちり釘を刺す。
そんな星矢の懸命の牽制にもかかわらず、瞬は 自らの懐に飛び込んできた窮鳥に すっかり同情してしまっているようだった――氷河が作り出す雰囲気に、瞬は すっかり呑まれてしまっていた。

「それは もちろん、お力になれるなら なりたいです。でも――異世界だの、違う次元に行けるだの、あなたはファンタジーの世界から来たのかもしれないけど、この世界はごく普通の世界なんです。卑近な話で申し訳ないですけど、食事とか、この世界のもので平気なんですか? それに、あなたが この世界で怪我や病気をすることだってあるかもしれない。僕、あなたの身の安全を保証することができません。僕には あなたを お世話できる自信がないんです」
「そんな心配は不要だ。俺がこの世界に来て、既に半日が経っている。だが、俺は 腹も減らないし、疲れや眠気も感じていない。俺の身体はおそらく新陳代謝が止まっている。俺の時間は止まっているんだ。君の方こそ、何か身体に変調はきたしていないか。俺が側にいることで」
「ぼ……僕は、特には何も……」

それは嘘だと、星矢は――おそらく紫龍も――思っていた。
窮状を訴え 救済を求める見知らぬ外国人の視線にどぎまぎして、瞬はすっかり挙動不審者になってしまっている。
それだけならまだしも、どういうわけか頬を上気させてさえいる。
おそらく その心臓は早鐘を打っているに違いない。
自分の感情を隠すのが下手な瞬の不可思議な反応は、瞬の幼馴染みたちには一目瞭然のことだった。

一目瞭然。
だが、それは不可思議なことだったのである。
氷河に対する瞬の態度は、瞬の幼馴染みたちには。
瞬は、確かに男嫌いではないが、少なくともストーカーを好きなわけではない。
少女と見誤られるのも嫌いだったし、そういう者たちに面と向かって 文句を言うことはしないが――言えないが――毅然と否定することはした。
瞬は、人と争うのが嫌いなだけで、気が弱いわけではない。

その瞬が、熟練したストーカーで、“男の瞬”を恋人にしていると言ってのける 正気かどうかも怪しい男に見詰められ、少女のように恥じらい戸惑っているのだ。
いったいこの男は、瞬をそんなふうに変える、どんな力を持っているというのか。
星矢と紫龍には、それが不思議でならなかったのである。
しかも。

「早く帰らないと、瞬が心配する……」
全国的に有名な名門男子校一の美少女に見詰められているというのに、氷河の気持ちは まるで別のところにあるらしい。
こうなると、人に同情しやすい お人好しの瞬より、元の世界にいる恋人に対する氷河の恋情と誠意こそが、瞬の身を守ろうとする星矢と紫龍の強力な味方だった。
そんなふうに瞬の身を案じる幼馴染みたちの気も知らず、氷河の その呟きを聞いた瞬が、切なげな目をして氷河を見詰める。
瞬はすっかり 異世界から来たという氷河の言を信じてしまっているようだった。

「あなたの時間が止まっているのなら、あなたが僕たちの世界で100年を過ごしてから元の世界に戻っても、あなたの世界の時間は1秒も進んでいないのではないの? だとしたら、あなたの帰りが少しくらい遅れても、あなたの瞬さんが心配することはない……と思うんですけど」
「ああ、そうか……そうだな」
氷河は SF慣れしていないらしく、この世界で進むのと同じだけの時間が 元の世界でも進むものと思い込んでいたようだった。
瞬にそう言われ、深く大きく安堵の息を洩らす。
「瞬が泣いていないのなら いいんだ」

大物ストーカーは“異世界の瞬”の極めて忠実な恋人であるらしい。
自分の現在の境遇や気持ちより、恋人の心の方が大事。
初恋も知らない瞬には、それが おそらく非常に大きな衝撃だったのだろう。
「氷河……さんは、そんなにその人が好きなの」
氷河に そう尋ねる瞬の声は震えていた。
「俺の命より」
「えっ」
「というか、俺は瞬に幾度も命を救われている。俺の命は瞬のものだ」

いったい氷河は彼の世界でどんなふうに生きていたのか。
氷河の服装が もう少し突飛な――たとえば、異世界バトルゲームの登場人物のような――ものだったなら、それなりに想像もできたのだが、そうではないことが星矢を困惑させていた。
しかし、瞬は、そんなことよりも、真顔で 自分の命は恋人のものだと言えてしまう氷河の姿勢にこそ感動してしまったらしい。
「すごい……」
一言 そう言って、瞬はそれきり黙り込んでしまった。


冗談の響きもない声で『異世界から来た』と言う男。
その言葉を信じるなら、この世界に居場所のない男。
そして、元の世界に帰るためには 瞬の力が必要だと言い、片時も瞬から離れるわけにはいかないと言い張る男。
そんな男を、いったいどう扱えばいいのか。
狂人もしくは大嘘つきと決めつけて追い払うのが妥当な対応だろうと、星矢は思っていた。
そうする以外に何ができるのか――と。
だから、瞬が、
「なんか大丈夫なような気がするから、僕、しばらく氷河さんを僕んちに預かろうと思うんだけど……」
と言い出した時には、星矢は、氷河のみならず瞬の正気までをも疑うことになってしまったのである。

「しばらく おまえんちに預かる――って……」
「星矢のとこはお姉さんがいるし、紫龍のとこはお祖父様と春麗さんがいる。氷河さんを預かるにしても、まず説明が面倒でしょう。その点、僕のとこなら、兄さんはいないし、一人だから――」
「おまえ一人だから危ないんだろ!」
「でも、大丈夫だと思うよ。あの人、元の世界にいる恋人さん以外は眼中にないみたいだし、僕を 元の世界に戻るための道具としてしか見ていないみたいだし……」
「……」

それは確かな事実のようだった。
氷河が 現実と空想の区別がつかないタイプの虚言癖の持ち主で、いもしない恋人を熱愛している気になっているのでもない限り、氷河は瞬に“元の世界に戻るための力を持つ者”に対する関心と執着をしか抱いていないように、星矢の目にも見えていた。
だが、だからといって、“瞬”を恋人にしているという男を 一つ屋根の下に瞬と二人きりで置いていいものかどうか――。
何より、『氷河は この世界の瞬個人には執着していない』という“事実”を告げる瞬の声が 妙に沈んでいることが、気にかかる。
考えに考え抜いて星矢が出した結論は、
「じゃあ、この男は しばらく おまえんちに置く。ただし、何かあったらすぐに俺に電話すること」
というものだった。
「えっ、星矢、携帯電話の使い方を覚えてくれるの?」
瞬が、どこか本題から外れたことを のんきに問い返してくる。
その声が嬉しそうに弾んでいることが、僅かに星矢の心を安んじさせてくれたのである。
事態は まだ のっぴきならないところにまでは至っていないようだ――と。






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