その夜は、とりあえず、星矢の携帯電話が呼び出し音を奏でることはなかった。
それでも心配だった星矢は、翌朝、いつもより15分早く起床して、隣りの隣りにある瞬の家に向かったのである。
「いつもは 僕が迎えに行って、星矢を待ってるのに」
そう言いながら慌てた様子で玄関に出てきた瞬は、だが、通学のための準備は既に万端 整っていた。
星矢には15分早い時刻でも、瞬には それがいつも家を出る時刻だったらしい。
自分は毎日ぎりぎりまで寝ていて 毎日瞬を15分も待たせていたのだということを、小中高 合わせて10年目の夏に、星矢は初めて知ることになったのだった。

そうして9年と半年分の反省をしながら 学校に向かって歩き出した星矢と瞬の後ろに、それが当然という顔をして氷河がついてくる。
瞬も そんな氷河を咎めない。
咎めないどころか、瞬は、氷河同様 それを至極 当たり前のことと思っているようだった。
いったい昨夜、瞬は どういう理屈で氷河に言いくるめられたのかと、星矢は不審の念を抱いてしまったのである。
「おまえ、まさか、ガッコまでついてくるつもりなのか !? 」
星矢が非難するように問うと、氷河は これまた当然という顔をして頷いてきた。
「何がきっかけになるのかは わからないが、何かが瞬に起こるはずなんだ。そのきっかけ、タイミング、条件がわからない以上、俺は その機会を逃さないために、瞬から離れるわけにはいかない」

昨日は それでも『瞬くん』と呼ぼうと努めていたようだったのに、氷河はその努力をやめてしまったらしい。
瞬を、馴れ馴れしく呼び捨てにするストーカー。
そんなストーカーに文句一つ言おうともしない瞬。
星矢は、思い切り嫌な気分になってしまった。
「おい、こいつ、おまえんちでも ずっとこんな調子だったのか?」
「え? あ、うん。いつ その時が来るかもしれないからって言って、氷河さん、ずっと僕の側にいてくれたよ。居間にいる時も、食事中も、勉強中も。お風呂に入ってる時も、ドアの前にいてくれて、何か変調があったらすぐに知らせるようにって」
「おい……」
それは、どんな小さな瑕疵もない完全無敵のストーカー行為である。
そのストーカー行為を『側にいてくれた』と表する瞬のセンスが、星矢には信じ難かった。

「おまえたち、まさか同じ部屋で眠ったのではないだろうな」
星矢の家の向かいに住んでいる紫龍が、いつのまにか星矢たちに合流してきていた。
いつものことなので、星矢も瞬も驚かない。
「あ、紫龍、おはよう。ううん。夜は別々。寝惚けて間違いでも起こしたら、瞬さんに顔向けできないからって」
「瞬さんに顔向けね……」
氷河の言は、愛する恋人に忠誠を尽くす騎士道精神にのっとった誠実な判断――と解することもできた。
が、視点を変えて解釈すれば、それは『寝惚ければ 間違いを起こす可能性がある』と言っているのと同じこと。
到底安心していられる事態ではない。
だが、瞬は、氷河を安全な男と信じてしまっているらしく、自分が危険な状況に置かれていることを全く認識していないようだった。
氷河に対する瞬の信頼が、星矢には まるで理解できなかったのである。


氷河は、グラード学園高校の敷地内にも堂々と入ってきた。
授業中に教室内に入ることまではしなかったが、廊下から教室内を――瞬を――ずっと見詰めている。
休み時間、昼休み時間、放課後の部活動の時間――。
危害を及ぼせるほど瞬に近付くことはないのだが、一定の距離を保って、常に瞬の姿が見えるところを、氷河は自分の居場所として確保していた。
そして常に、睨んでいるようにも思えるほど強い視線で、瞬を見詰めている。
瞬との間に 常に 数メートル、数十メートル単位の距離を置いている氷河の方が、物理的な接触を持つことのできる自分よりも瞬の側にいるような錯覚を、星矢は覚えたのである。

「なんか、俺、あいつ恐いんだけど……。今朝から あいつ、まじで1秒たりとも瞬から目を離してないぜ。すごい執念っていうか、執着っていうか、根性っていうか――。ストーキングでも何でも、ここまでするには、それなりの気力と体力が必要じゃん。そのどっちも、あいつは普通じゃない。化け物じみてるぜ」
スポーツ万能であるにもかかわらず特定の運動部に縛られることを嫌っている星矢は、通常は、瞬が所属する地域奉仕部の部員だった。
出場したい競技会や試合がある時だけ、陸上、サッカー、剣道等の部に期間限定で入部する。
今日の星矢は地域奉仕部の部員。
そして、今日の奉仕活動は学校周辺の環境美化。
拾った空き缶を入れるゴミ袋を引きずりながら、星矢は、地域奉仕部の部長である紫龍にぼやくことになった。

「奴のあれは、執着というよりは粘着だろう。奴が執着しているのは、奴の世界にいる瞬であって、恋人の許に戻るために瞬から目を離さずにいるだけだ。まあ、それも奴の話が事実としての話だが。奴の気力体力が常人のものではないという意見には、俺も賛同する」
そう言って、紫龍は、地域奉仕の作業を手伝うでもなく校門の前に立ち、瞬の姿を追い続けている氷河に ちらりと一瞥をくれた。
そして、他の部員に聞かれないように、声をひそめる。
「それより、おかしいとは思わないか。あまりに奴の粘着振りが自然すぎるせいで気付かずにいたんだが、普通学校というものは、よほどのことがない限り 部外者の侵入を許さないものだ。小中学校ほどではないが、ウチの学校もそれなりのセキュリティチェックはしている」
「そりゃ、ストーカーが入り込んだりしたら大変だもんな」

紫龍の用心を無にする音量で、星矢は紫龍の疑念を笑い飛ばした。
ジョークのつもりで そう言った星矢に、紫龍が渋面を作ってみせる。
「冗談ではない。なぜ彼は 誰にも咎められず、校舎内に入ることができたんだ」
「ははは、実は 俺たち以外の人間には氷河の姿が見えてないんだったりして」
星矢は、もちろん それもジョークのつもりだった。
星矢のジョークに、紫龍と瞬は黙り込んでしまったが。
笑ってもらえないことに不満を抱きつつ、真顔の仲間たちの分も、星矢が笑ってやる。

「おい、冗談だってば。あんなにはっきり見えてるのに、んなことあるはずないだろ。俺、今朝、あいつが それが当然ってツラして瞬についてくるのが癇に障って、あいつを すっ転ばしてやろうと思って、瞬の家の門の階段のところで足を引っかけてやったんだ。あいつは引っかからなかったけど、そん時、あいつ、逆に俺の足を踏み返してきやがった。ちゃんと痛かったぜ」
「星矢、なんてことするの!」
「だから、転ばしてないって。おい、おまえ、あそこにいる金髪の男、知ってるか?」
瞬に 小言を食らうのを避けるために、星矢は、数メートル先の歩道で、星矢よりは はるかに真面目に奉仕活動に努めていた部員に声をかけた。

その時点で、星矢は、異世界から来たという氷河の申告を半ば以上信じていなかった。
ストーカーはストーカー。
非や罪はストーカーの上にあるのであって、瞬が変な男につきまとわれている事実を隠す必要もなければ、ストーカーの扱いに気を遣う必要もない。
そう考えて、星矢は、正々堂々と(?)、勤勉部員に尋ねたのである。
その部員から返ってきた答えは、
「金髪の男? どこに」
というものだった。

「どこに……って、校門の前にいるだろ。偉そうに腕組んで、こっち睨んでる男が」
「校門の前? 星矢、おまえ、目が悪くなったのか? いつも両目の視力2.5とか自慢してたのに」
「……」
狂人ではないにしても病人を見るような目を 勤勉部員に向けられて、星矢の顔は強張り引きつってしまったのである。
それは、紫龍と瞬も似たり寄ったりだった。
「幽霊でないなら、あいつが異世界から来たってのは、ほんとのことなのかも……」
そう告げる星矢の声には、抑揚がまるでなかった。

「でも、僕……」
その衝撃から最初に立ち直ったのは、異世界から来たという氷河の申告を昨日のうちから ほとんど信じ切っていた瞬だった。
「僕は、氷河さんがどこから来たんでも、他の人に見えてなくても、そんなこと どうだっていいよ。僕たちには見えてるんだし、触れることもできるんだから。氷河さんは綺麗だし、親切だし、礼儀正しい。ご飯食べる必要がなくて、僕だけ食べてるのは気まずいんだけど――夕べは家の中に僕一人きりじゃなくて、僕、すごく嬉しかった。兄さんは いつも家にいなくて、僕、いつも一人で ちょっと寂しかったから」

少し寂しげに、そして 心から嬉しそうに そう言う瞬に出会った星矢たちは、瞬がファンタジーやメルヘンを信じることのできる人間なのだということを、今更ながらに思い出したのである。
そんな瞬を見て、星矢と紫龍は、できれば ほのぼのした気分を味わいたかった。
瞬と同じようにメルヘンを信じることはできなくても、メルヘンを信じることのできる瞬に ほのぼのできる人間ではいたかったのである、星矢も紫龍も。
だが、今の この状況は、到底ほのぼのしていられる事態ではない。
むしろ、非常に危険な状態にあるといってよかった。
他でもない、瞬の気持ちが。


「瞬の奴、大丈夫かな。別の意味で」
「彼の世界の瞬は 彼と恋人同士なわけで、当然、彼に好意を抱いているのだろうしな。瞬が異世界の自分と同じ気持ちになったのだとしても、それは さほど不自然なことではないのかもしれん」
「瞬があの毛唐に惚れるとでもいうのかよ?」
「既に多大な好意を抱いているのは確かだな。昨日の今頃はストーカーだと思って逃げまわっていた男に。瞬はもっと慎重派だと思っていたんだが……。何か妙な力が瞬の上に働いているのだとしか思えん」
「妙な力ってのは何だよ」
「それはまあ、瞬好みにメルヘンチックに言うなら、運命の力とか」
「何が運命だよ! 冗談じゃねーぞ。瞬が男に惚れるのを 手をこまねいて見てたなんてことが一輝に知れたら、俺たちは一輝に殺されるぞ!」
「うむ。間違いなく」

そんな事態を避けるためにも、氷河にはさっさと元の世界に戻ってもらわなければならない。
それが、星矢と紫龍の辿り着いた結論だった。
問題は、氷河にさっさと元の世界に戻ってもらうためには、彼の瞬へのストーカー行為を容認しなければならないということ。
大いなる矛盾に、星矢と紫龍は頭を抱えることになってしまったのである。






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