とにかく、そういう経緯で、氷河が異世界からやってきた人間だということは確定した。 そして、少なくとも瞬の中では、氷河はストーカーではなくなった。 一つ屋根の下で暮らし始めて3日も経つと、まるで10年も前から そうだったような錯覚を覚えるほど――瞬は、氷河が常に側にいる状態に慣れてしまったのである。 氷河は、“瞬”の性格や価値観を熟知していて、瞬を不快にするということが全くなかった。 瞬を喜ばせ、楽しい気持ちにすることしか、氷河はしないのだ。 『人を信じすぎるな』 『自分が損をしてまで、人に親切にしてやる必要はない』 『詰まらないことで いちいち泣くな』 星矢や紫龍なら否定し注意してくるようなことを、 『信頼を裏切られた時、裏切った相手や信じてしまった自分を憎まない覚悟があるのなら、いくらでも信じればいい』 『おまえには、それは“損”ではないんだろう』 『おまえは 自分のために泣くことはないからな』 氷河は 認め許してくれる。 だが、それは決して 氷河が瞬を甘やかしているわけではなかった。 むしろ 瞬を甘やかす必要のない人間だと認めているからこそ、瞬の欠点(と評されることの多い性癖)を、氷河は容認してくれているのだ。 瞬は、それが嬉しかったのである。 嬉しくて、心地よかった。 最初のうちは。 「僕、そんなにあなたの世界の瞬さんに似てるの?」 「姿だけなら、完全に そのままだ」 「姿だけ? 僕は、あなたの瞬さんに、その……人間的に劣るの」 「君と俺の瞬とでは 生きている環境が違う。君は可愛いし、素直だし、親切だ。瞳が澄んでいて、誠実で清純。君はこの世界では十分に魅力的な人間だろう」 「氷河さんの目で見たら、魅力的じゃないの」 「そうは言わない。だが――俺の瞬ほど素晴らしい人間はどこにもいない。俺の瞬は地上で最も清らかな魂を持ち、誰よりも優しく、誰よりも強い。俺の瞬は特別だ。俺にとっては、唯一無二の存在だ」 「……」 氷河が自分を甘やかす必要のない人間だと認めてくれるのは、彼の瞬がそういう人間だからなのだということは、瞬にもわかっていた――氷河と暮らしているうちに わかってきた。 氷河が彼の瞬をどれほど愛しているか――恋人として愛しているだけでなく、一人の人間として、どれほど深く信じ、尊敬しているか。 そういったことを知るほどに、瞬の心は憂いに沈むようになっていったのである。 「あ……あのね。僕、氷河さんがここにいたいのなら、いつまででもいてくれて構わないよ」 「一輝が帰ってくるだろう。奴が俺を見たら、君の側にいることを許すまい」 「兄さんには氷河さんが見えないかもしれないじゃない」 「それはない。俺と瞬、一輝、星矢、紫龍は、特別な仲間なんだ。俺は一輝が苦手だが、信頼はしている。一輝が瞬を誰よりも愛し、その幸せを願っていることは疑いようがないし――この世界の一輝もそうなんだろう?」 「そう……なのかな? 兄さんはいつも仕事で忙しくて、あんまり僕の側にいてくれないんだ。僕なんか、いてもいなくてもどうでもいいと思ってるんじゃないかな」 「ここは平和すぎるな。一輝がどれほど おまえのことを愛しているのか、そのことに気付く必要も機会もないとは」 「……」 氷河が、彼の瞬をどれほど愛し、信じ、尊敬しているのか。 共に同じ時間を過ごすうちに、瞬にはそれがわかってきた。 同様に、氷河も、この世界の瞬が 彼の世界の瞬ほど素晴らしい人間でないことに気付きつつあるだろう――。 そう思わざるを得ないことが、瞬の心を つらくした。 「も……もし、氷河さんの言う何かが僕の身に起こらなくて、氷河さんが元の世界に帰れなかったら、氷河さんは――」 『瞬さんを諦めて、僕を瞬さんの代わりにしてくれる?』 氷河に訊きたいと思ったことを、瞬は結局 口にすることはできなかった。 答えがわかり切っていたからではなく、訊くのが恐かったからでもなく――そんなことを訊くような人間を氷河は好まない――むしろ軽蔑する――ことがわかっていたから。 「例え話でも、そんなことは言わないでくれ。俺の瞬がいないところでは、俺は腑抜けも同然なんだ」 「そんなことない……」 そんなことはない。 彼の瞬は確かに この世界にはいないのに、氷河の心の中には彼の瞬しかいない。 氷河の心の中には、たった今も、彼の瞬が確かにいるのだ――。 「僕、瞬さんが羨ましい。妬ましい。僕、こんな……僕、こんな僕は嫌だ……!」 たった今も、この異世界ででも、氷河の心の中には 彼の瞬しかいない。 その事実がどれほど苦しく悲しくても、氷河の前で泣いて その苦しみや悲しみを 彼に訴えるわけにはいかない。 瞬が 泣きながら その苦しみや悲しみを訴えることができるのは、瞬の――この世界の――星矢と紫龍しかいなかった。 「瞬、泣くなよ……」 想定していたこととはいえ――否、想定していた以上の最悪の事態。 瞬に泣きつかれた星矢と紫龍にできることは、だが、せいぜい、自分以外の瞬に好意を持たれることなど考えたこともなかったらしい氷河に、 「おまえ、瞬を泣かせんなよ!」 「瞬のために――不必要に瞬に優しくするのはやめてほしい」 と釘を刺すことくらいだった。 「奴の側にいるのはよくない。奴を家から追い出せ」 という幼馴染みたちの忠告に、瞬は、 「どんなに つらくても悲しくても、氷河さんの側にいたい」 と言い張り、頑として首を縦に振らなかったから。 瞬の幼馴染みたちに釘を刺されて 自分に対する瞬の好意を知った氷河が、瞬との間に距離を――物理的にも心情的にも――置くことを考え始めた頃だった。 グラード財団の産業機械事業のロシア法人の内部監査のために出張していた瞬の兄が、一人の異国人を連れて弟の許に帰ってきたのは。 |