「ああ、瞬。突然で済まんが、落ち着き先が決まるまで、この くそ生意気な毛唐を家で預かることになった。今回 監査に行ったグラード物産のロシア法人のCEOの甥っ子なんだが、そのCEOがとんでもない日本贔屓――というか、日本女性贔屓でな。甥っ子の嫁に大和撫子を世話してくれたら、全面的に監査に協力してやらないこともないと卑劣な脅しをかけてきやがったんだ。嫁は無理だが留学の世話くらいならということで折り合いをつけて、何とか仕事を終えてきた。老けて見えるが、これでまだ17で――瞬? どうしたんだ?」 一ヶ月振りに帰ってくるなり、玄関先で、面倒な説明は この1回だけで済ませたいと言わんばかりの勢いで まくしたてていた一輝が、周囲の空気の異様さに気付いて 言葉を途切らせる。 瞬の兄を瞬の家の玄関で出迎えたのは、瞬と星矢、紫龍の三人。 彼等は一輝が連れてきた異国人の顔を見て、一様に言葉を失い呆然としていた。 氷河を 星矢宅か紫龍宅に引き取るべく瞬を説得していたところに、突然 瞬の兄が もう一人の氷河を連れて帰ってきたのだ。 彼等の驚愕は当然のことだったろう。 「氷河さん……」 瞬が、たった今 この家の二階にいるはずの人の名を呼ぶ。 かすれて小さな瞬の声を聞いて、一輝は僅かに眉根を寄せた。 「俺は、こいつの名前を言ったか?」 一輝は、もちろん、初対面同士の人間を引き合わせる際 いちばん最初に知らせるべき その情報を、まだ弟たちに伝えていなかった。 だが、この新しい(?)登場人物が『氷河』以外のどんな名前の持ち主であり得るのか。 それほどに、彼は――少なくとも外見は――氷河そのものだった。 二人目の氷河の出現に驚く瞬、星矢、紫龍。 初めて会うはずの異国人の名を、なぜか弟が知っていることを訝る瞬の兄。 だが、その場で最も強く大きな衝撃を受けていたのは、実は、極東の島国の ごく一般的な住居に初めて足を踏み入れた金髪の異国人その人――のようだった。 「これが一輝の弟? 少しも似てないじゃないか。瞬というのか? これほど澄んだ目を持つ人に会ったのは初めてだ!」 二人目の氷河は、兄の出迎えのために玄関に下りてきた瞬の姿を認めるなり、感極まったように そう叫んで、土足のまま瞬の側に駆け寄り、その手を取った。 姿だけでなく、口にするセリフまでが 一人目の氷河のそれに酷似している。 彼に両手を握りしめられ、見慣れた青い瞳に見詰められることになった瞬の心臓が 大きく一つ波を打ったのが、星矢と紫龍には見てとれた。 「俺の目が濁っているとでも言うつもりか、貴様! つーか、瞬から離れろっ。くそ生意気な毛唐の分際で、俺の弟に触るんじゃないっ!」 怒り心頭に発した様子で、無遠慮な金髪男を、それこそ土足のまま 瞬から引きはがしにかかるかと思われた一輝が そうしなかったのは、彼が 大人らしい自制心を働かせたからではなかった。 そうではなく――彼は、彼の怒りに導かれるまま振舞うことができなくなったのである。 「そういうことだったのか!」 もう一人の氷河が その場に現れたせいで引き起こされた超常現象のために。 「氷河が二人 !? 」 「瞬ではなく、この世界の俺が、元の世界に戻る扉の鍵だったんだ!」 同じ空間に二人の氷河が立った途端、二人の氷河の間の空気がゆらゆらと陽炎のように揺れ始める。 その揺らぎは、異世界の氷河が この世界の氷河に近付くにつれ大きくなり、 「氷河さん!」 氷河が何をしようとしているのかを察した瞬が、悲鳴のように その名を叫ぶ。 既に その瞳に涙をにじませている瞬の頬に、異世界の氷河が その手でそっと触れた。 「この世界の俺が来たなら、もう俺はいなくても平気だろう。きっと、この氷河は 鬱陶しいくらい君を恋するようになるから、覚悟しておくことだ」 「あ……」 瞬の頬に触れた手を、すぐに氷河は離した。 そして、星矢と紫龍に、 「世話になった」 と短く言う。 瞬は、氷河を止めようとした。 だが、瞬の手が異世界の氷河に届く前に、彼は もう一人の自分の肩に その手を置いていた。 その瞬間に、すべては消えてしまったのである。 空気の歪みも、本来 この世界にいるべきではなかった男の姿も。 「氷河さん……! 氷河さん! 氷河さん! そんな……!」 その瞬間には、どんな衝撃も起こらなかった。 ゲームの演出でなら 大仰に挿入されるだろう閃光も爆発音も。 あまりに あっけなく、あまりにも簡単に、氷河の姿は この世界から消えてしまったのである。 『さようなら』の一言もなく。 「まあ、奴にしたら、別れの言葉なんか並べ立てて、おまえに気をもたせるようなことはしたくなかったんだろうし……」 たった今まで その人がいた場所を見詰め 呆然としている瞬に、星矢が気遣わしげに慰撫の言葉をかける。 「でも、星矢……こんな……こんな簡単に――さようならも言わずに……」 瞬は、星矢にしがみついて泣き出してしまっていたに違いなかった。 その場に二人目の氷河――この世界の氷河がいなかったなら。 どうやら、この世界の氷河には 異世界の氷河の姿が見えていなかったらしい。 たった今 この場で何が起こったのかに、彼は全く気付いていないようだった。 ただ、とにかく彼は 瞬と親しげな様子の星矢が邪魔でならなかったらしく――もとい、明確に邪魔者扱いして――彼は星矢を脇に突き飛ばした。 そして、再度、瞬の両手を自分の両手で握りしめる。 「瞬、氷河さんではなく、氷河と呼んでくれ。この国の大和撫子は絶滅したと聞いていたし、こんな小さな島国に留学して いったい何が学べるのかと、叔父の横暴には立腹していたんだが、まさか この国に これほど素晴らしい運命が待っていたとは……!」 「え? あ……あの……」 「だから、貴様、俺の弟から離れろと言っとるだろーが!」 「その事実だけは信じられない。貴様は、見るからに野蛮で野卑。俺の瞬は繊細で可憐」 「なにが『俺の瞬』だ! 俺の大事な弟が 貴様の瞬になんかなってたまるかーっ!」 「兄さん……」 この場に、遠慮の“え”の字も知らない二人目の氷河がいたことは、瞬にとっても 瞬の幼馴染みたちにとっても 本当に幸運なことだった。 図々しい氷河のせいで いきり立っている一輝は、氷河が二人その場にいたことを憤怒の見せた幻とでも思ったらしく、氷河を瞬から引きはがす仕事に専心し始め、氷河は氷河で、この運命の出会いを他人に引き裂かれてたまるかと言わんばかりの勢いで、瞬の兄と にぎやかな舌戦を始めてしまったのだから。 おかげで瞬には、氷河との別れを悲しんでいる時間が与えられなかったのだ。 別れのつらさを忘れさせてくれるのは 新しい出会い――ということなのかもしれない。 瞬の涙は乾き始めていた。 「僕の氷河さんが、僕に会いにきてくれたんだ。僕はもう、瞬さんを羨んだり妬んだりしなくていい……」 瞬の心を最も傷付けていたのは、異世界の氷河が自分を歯牙にもかけていないという事実ではなく、そのせいで 自分が他人を羨み妬んでいることの方だったのかもしれない。 二人目の氷河の登場は、瞬の胸の中から、そこにあった 負の感情を吹き飛ばしてしまったようだった。 何といっても、ストーカーに後をつけまわされることに慣れている瞬は、真正面からの攻撃に弱かったのだ。 「日本へ ようこそ。日本は初めてなんですか。日本語がお上手ですね。お会いできて嬉しいです」 この世界の氷河に そう告げることができるようになった時には、瞬の涙はすっかり乾いてしまっていた。 |