異世界での瞬が言っていた通り、元の世界では 本当に ただの1秒も時間が経っていなかったらしい。 奇妙な冒険が始まった1週間前の その時と同じように、氷河は瞬の部屋で瞬のネビュラチェーンを手にしていた。 氷河を からかうような音を立てて、チェーンがアンドロメダの鎧櫃の中に帰っていく。 「氷河、どうかしたの? ぽかんとして」 首をかしげて 氷河の顔を覗き込んでくる瞬の瞳は、異世界の瞬と同じように澄んでいたが、異世界の瞬のそれより はるかに深く複雑な輝きを たたえていた。 すぐに気を取り直し、氷河は瞬に微苦笑を向けたのである。 「あ、いや、このチェーンがなくなったら、おまえの鉄壁の防御も少しは緩んでくれるのかと思ってな」 「僕がいつ、氷河に防御陣を敷いたりしたの。変なことを考えながらネビュラチェーンに近付くと危ないよ」 「そのようだ」 それは この1週間で身に染みた。 もう こんな経験は懲り懲りだと思いながら、氷河は、危険なチェーンに背を向け、安全な瞬の方に向き直ったのである。 そして、1週間振りに瞬を抱きしめ、キスをする。 瞬の唇の やわらかい感触、快い熱。 懐かしいと感じる心が、氷河のキスを、昼間のキスにしては長いものにした。 瞬が、不思議そうな目をして、そんな氷河の顔を覗き込んでくる。 「なんだ?」 「ん……今、何か、氷河がどこかに行っちゃってたみたいな……氷河、どこかに行ってた? 何か、さっきまでと感じが変わってる」 1秒も離れていなかったのに、さすがに聖闘士の勘は鋭い。 氷河は、だが、異世界でのことを瞬に知らせるつもりはなかった。 アテナの聖闘士のいない平和な世界で、普通の高校生をしていた瞬。 その瞬を泣かせてしまったこと。 だが、いずれ あの瞬は あの瞬の世界で あの瞬なりの努力をし、自分の幸せを掴み取るだろう。 あの瞬には幸せになってほしいと思う。 だが、この世界の瞬が あの瞬の心配までをする必要はないのだ。 「俺が おまえの側を離れるわけがないだろう。ああ、だが、1分前より、おまえがもっと好きになったかな」 「1分前より? どうして? その1分間に何があったの」 瞬が、くすくすと小さな笑い声を洩らす。 瞬は氷河の その言葉を、いつもの戯れ言・睦言の類と思ってくれたようだった。 「俺たちだけでなく、俺とおまえ以外の人間も幸せになってほしいと思うようになった。そういう気持ちになるのは、こうして おまえと一緒にいられることを幸福だと感じられるからなんだろうな」 なぜ氷河が急に そんなことを言い出したのかは、この世界の瞬には わからないはず。 瞬は 恋人の発言を奇異に思い、不審感を抱いてもいいはずだった。 実際 瞬は、ほんの短い間、氷河の唐突な発言に戸惑いはしたようだった。 だが、すぐに氷河に やわらかい微笑を向けてくる。 「人の幸せを願う気持ちは自分自身をも幸せにするよね。自分が既に十分に幸せな時も、つらい時にも」 「ああ」 「その逆は、自分をも不幸にする。どんなに恵まれた環境にある人でも、人の不幸を願う人は 不幸で気の毒な人だと思うよ」 「そして、おまえは、そんな不幸で馬鹿な奴等の幸せをも願う お人好しというわけだ」 「氷河……?」 氷河の言葉は、聞きようによっては揶揄にもとれるようなものだった。 もちろん、氷河は瞬を揶揄することを意図して そんな言葉を選んだわけではなかったが。 「そんなおまえが好きだと思っただけだ。そうだな。誰もが幸せでいてくれた方がいいに決まっている。そうすれば、俺は、俺が世界一 幸せな男だということに罪悪感を抱かずに済むし」 「うん」 頷いて、瞬が微笑む。 その微笑は、形だけは、平和な世界に暮らしていた高校生の瞬のそれと全く同じものだった。 だが、微笑を作る素材が違っている。 それは、優しく清らかなだけの人間には作れない微笑。 この世界の瞬の微笑は、強さという土台の上に作られているのだ。 見慣れた瞬の微笑に つられるように、氷河は口許を ほころばせた。 「なに?」 「あの瞬も可愛かったが――」 「え?」 「いや……。おまえのところに帰ってきたんだなと思って」 「? 変な氷河」 どの世界にも悲しいことや つらいことはあり、どの人生にも試練はあるだろう。 本当の悲しみや つらさを まだ知らないようだった あの瞬は、これから そういう出来事に出会うのかもしれない。 そして、いつかは、この世界の瞬と同じような微笑を浮かべる瞬になるのかもしれない。 それは、一概に“悪いこと”“不幸なこと”とは言えないだろう。 何といっても、あの瞬には、あの瞬の仲間たちや兄や“氷河”がついている。 何も知らせなくても すべての人の幸福を願う瞬も、ここにいる。 おそらく自分が案じることは何もないのだ。 そう自身に言いきかせ、自らの心を安んじさせて、氷河は彼の瞬を抱きしめた。 Fin.
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