一国の王子を獣に与える前代未聞の儀式は、その儀式に参列するよう指示されたギリシャ各国各都市の王侯貴族全員がエティオピアに揃った その日、エティオピアの都の東の丘に建つアテナ神殿で 本当に執り行われてしまった。
参列した王侯貴族が誰も代理を立てなかったのは、それがギリシャ世界で最も強大な力を持つ女神アテナの指示だからという事情もあったろうが、彼等の胸中が俗な好奇心で満ち満ちていたせいもあっただろう。

エティオピアの国力の大きさを示す華麗壮大なアテナ神殿。
巨大なアテナ神像。
金の祭壇。
その前に控える巨大な獅子と華奢な王子。
ギリシャの国々のすべての君主、すべての高貴な人々が見守る中、式は粛々と進められた。
式といっても、それは、神官による神への頌詞、エティオピア国王による参列者たちへの謝辞が述べられたあとは、瞬王子をシルビアンに与える誓詞が女神アテナに捧げられるだけの、ごく短い儀式にすぎなかった。
どれほど神聖な儀式も、最も時間がかかるのは、式のあとの宴の方なのだ。

ごく短い時間で終わるはずだった、瞬王子をシルビアンに与える誓いの儀式。
だが、その儀式は肝心の誓詞がアテナに捧げられている まさにその時、突然の闖入者によって中断させられてしまったのだった。
「神々もご照覧あれ。エティオピア王国は、女神アテナの教示に従い、エティオピア王国第二王子 瞬を、ネメアの獅子シルビアンの手に委ね――」
「瞬ーっ !! 」
大音声で瞬王子の名を叫び、あろうことか神聖なアテナ神殿の大理石の床に馬の蹄の音を高らかに響かせ、騎乗のまま儀式の中に 乱入してきたのは、言わずと知れた氷河王子だった。

もう3ヶ月近くも会えずにいた恋しい人。
死人のように青ざめていた瞬王子の頬に 僅かに血の気が戻り、その瞳が生き生きと輝きだす。
それでも祭壇の前から動けずにいた瞬王子に、氷河王子は馬上から手を差しのべた。
「俺は馬鹿だから、おまえを幸せにはできないかもしれない。また、おまえを傷付けるかもしれない。だが、瞬、俺は――」
「氷河……」
瞬王子は、その時にはもう何の迷いも抱いていなかった。

「ごめんね、シルビーちゃん」
黄金の装身具で身を飾られたシルビアンの頭を撫で、その太い首を抱きしめる。
そうしてから、切なげな目をしたシルビアンの瞳を見詰め、その眼差しを振り切るように 祭壇とシルビアンに背を向けて、瞬王子は氷河王子の手をとった。
「僕は、氷河のものだよ!」
「瞬……!」
花のような瞬王子の笑顔。
明るく幸福に輝く瞬王子の笑顔は、氷河王子の上にも 太陽のような微笑を運んでくる。
それでなくても身の軽い瞬王子を、氷河王子は花を一輪 摘むかのように軽々と馬の背に運び乗せた。

神聖かつ厳粛であるべき儀式のさなかに突然乱入してきて、式の主役の一人を さらっていこうとしている不逞の輩。
式の参列者たちは皆、思いがけない その展開に仰天していた。
中でも、氷河王子の故国ヒュペルボレイオス国王の驚きは、他国の王たちの比ではなかった。
「氷河 !? おまえ、こんなところで何をしているんだ !? 」
「叔父上?」
それでなくても想定外の出来事に混乱し浮足立っていた高貴な参列者たち。
瞬王子が飛びついていった相手が ただの無頼の徒ではなく ヒュペルボレイオス国の王子だということを知ると、彼等は 沈黙も粛然とした態度も保っていられなくなった。

「氷河というと、では、あれは、レルネ沼のヒュドラを退治したヒュペルボレイオスの氷河王子なのか!」
「つい先日、コルキスの不眠龍とヘスペリデスの園の百頭龍も倒したと聞いたぞ」
「ヒュペルボレイオスの氷河王子が、エティオピアの瞬王子を誘拐?」
「いや、これは誘拐ではなく駆け落ちだろう。瞬王子は自分から氷河王子の手を取った」
「どちらにしても、人の身で、よりにもよって女神アテナの神託をないがしろにするとは」
「大国の王子同士が!」
「いくら何でも これは……余興か何かなのではないのか」
「余興なら、神をも恐れぬ暴挙だぞ!」

騒ぎを起こした当の二人より 高貴な参列者たちのせいで、静謐が保たれるべき神の館の中は蜂の巣を突いたような大騒ぎ。
その場で冷静と静寂を保っているのは、エティオピア国王と、こうなるだろうことを あらかじめ知らされていたエティオピアの兵たち、神官たちだけだった。
否、もう一人――否、もう一頭。
愛する瞬王子を憎い恋敵に奪われたにもかかわらず、『瞬のために、そこを動くな』と一輝国王に厳に命じられていたシルビアンが、アテナ像の足元で大きな身体を小さく丸め――それでも十分に大きかったが――声を立てずに男泣きに(?)泣いていた。






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