高校編入の件を事前に氷河に知らせなかったのは、氷河を驚かせようとか、不意打ちを食らわせようとか、そんなことを考えていたからじゃない。 ただ面倒だったからだ。 だが、結果的に、氷河は俺の登場に驚き、不意打ちを食らったことになる。 その日、グラード学園高等部2年Aクラスの教室で、 「転入生のアイザックくんです」 と担任教師に紹介された俺を見た氷河は、俺の来日を歓迎している様子を全く見せなかった。 俺は、6年もの間、氷河と兄弟のように暮らし、カミュの課する つらい修行を共に耐えてきた親友だぞ。 少しは再会を喜んでみせたらどうなんだと、正直 俺は思ったんだが、奴の隣りの席に着いた俺に、氷河は ひたすら胡散臭いものを見る目を向けてくるばかりだった。 あげく、朝のホームルーム(何なんだ、それは)が終わると、 「何しに来た」 と、露骨に迷惑そうな声音で、氷河は俺に尋ねてきた。 俺は白々しい顔で、 「もちろん、文明国で お勉強するために来たんだ」 と答えてやったさ。 それは、俺にとっても不本意な事実だったんだが、奴は俺の言葉を信じる素振りを毫も見せなかった。 まあ、そんな答えを信じる方がおかしいがな。 「日本に行って半年、全く連絡もよこさないし、カミュが心配するのは当然だろう。不肖の弟子の様子を見て来いと、カミュに言われたんだ。もっとも、カミュが心配しているのは、文明国でのんびり暮らしていたら おまえが自然の中に戻れなくなるんじゃないかということのようだったがな。これまでの修行の成果を無駄にするのは 人類の損失だと、カミュは言っていた」 それは嘘じゃない。 むしろ虚飾も忌憚もない事実だったんだが、そう言った俺を見る氷河の目には、ありありと不審の色が浮かんでいた。 氷河の目は、『それだけではないだろう』と、『それだけのはずがない』と言っていた。 実際、それだけじゃなかったから、俺は正直に、俺の来日のもう一つの理由を氷河に教えてやったさ。 「学校嫌い、勉強嫌い、集団生活嫌いのおまえが、こんなところに通うことにしたのは、女ができて 恋に うつつを抜かしているからに違いないとカミュが言い出したんだ。それで、俺が――」 俺が言葉を途切らせることになったのは、『おまえのカノジョを見物に来た』と言いにくかったからじゃない。 氷河が――それまで、不審かつ不機嫌そうな目で俺を睨んでいるばかりだった氷河が――ごく微かにだったが、頬を上気させたからだ。 氷河が――この氷河が――あの氷河が――もしかして これは“照れている”のか? カノジョのことを持ち出されたから? 誇張でも冗談でもなく マーマひとすじ、この広い世界に 女はマーマただ一人だけだった氷河が? 『氷河がシベリアに帰ってこないのは女ができたから』というカミュの推察を、俺は、そうだったら面白いと思ってはいたが、完全に そうだと信じていたわけじゃない。 馬鹿の一つ覚えみたいに マーマひとすじで――その とばっちりを俺に食わせ、俺から片目を奪い、それでも矯正されないほどマーマひとすじだった氷河が マーマ以外の女に興味を持つなんて、俺にとっては驚天動地の出来事だった。 だが、そうだったらしい。 カミュの推察は当たっていたらしい。 驚天動地の出来事が、実際に起こっていたんだ。 俺が知らないうちに。 信じ難いことに。 「図星なのか? 本当に? 学校嫌いのおまえが 学校なんてものに通ってるってことは、相手は この学校にいるんだな? どれだ。あれか、それとも あっちの奴か」 多分 その相手は氷河のマーマに似ているはずだと決めつけて、俺は手当り次第に教室内にいた髪の長い女を指し示した。 「違う! このクラスにはいない!」 氷河が慌てたように、俺が伸ばした腕と手を元の位置に戻させる。 「このクラスにはいない? じゃあ、別のクラスにはいるのか? おまえは 本当に女に引っかかっていたのか? この うつけ者が!」 「違う!」 「何が違うというんだ! でなかったら、なぜ おまえがこんなところにいるんだ!」 「いや、だから、それは――」 「だから それはどうだというんだ!」 冷静になって考えれば、それは俺が腹を立てるようなことじゃなかった。 マーマひとすじの氷河が他の女に目を向けるようになるなんて、むしろ、巨大セイウチを1頭倒して祝宴を催してもいいくらい喜ばしいことだ。 にもかかわらず、氷河がマーマひとすじでなくなったことに俺が腹を立てたのは、それが俺の知らないところで進展していたことだから。 そして、おそらく日本に来てからは肉体の鍛錬も怠っていたんだろう氷河が、学校なんて箱の中で、なまっちろいガキ共と机を並べて、世界の主要国の産業だの 微分積分だのを覚えることに価値があると考えるようになったのだろうことが、気に入らなかったから。 氷河が せせこましい島国で新たに手に入れたのだろう価値観が、俺には全く理解できないものだったからだ。 氷河は、来日当初は本当にすぐシベリアに帰るつもりで、ホテル住まいをしていたらしい。 だが、高校に通う決意をした際、伯曾祖父だか叔曾祖父だかから一部受け取った遺産でマンションを買ったそうで、そこに併設されているジムで筋トレは欠かしていないと、奴の怠慢を非難した俺に弁解してきた。 「なまぬるいものだとしても、一応 修行は続けているのか」 と、少し機嫌を直した俺に、氷河の馬鹿野郎は、 「もちろんだ。セイウチやシロクマと戦うための戦闘力は必要ないが、それなりの運動能力と それなりの外見の維持は必要だからな」 とか何とか、寝惚けたことをほざいてきやがった。 それなりの外見維持? それは、つまり、女に気に入られるためということか? おい、本当に氷河はどうなっちまったんだ? こんな ぬるい気候の国に来て、氷河は頭まで腐っちまったのか !? 生きるため、戦うためじゃなく、女に気に入られる外見維持のための筋トレだ? そんな軟弱な考えは、いったいどこから湧いてきたものなんだ! 「ともかく俺は帰らん。せっかく瞬と付き合ってもらえるようになったのに、何が嬉しくて瞬のいない国に帰らなければならないんだ!」 不快が極まって眉を吊り上げた俺を、氷河は 俺より険しい目で睨みつけた。 瞬? それが氷河の女の名なのか? 「とにかく帰らんぞっ! 俺は、俺に与えられた命と時間のすべてを瞬に捧げると決めたんだ!」 そう断言して、氷河が俺に背を向ける。 そのまま奴は、乱暴な足取りで教室を出ていった。 ある意味 それは実に氷河らしいことだと、俺は思ったんだ。 一つのことに夢中になると 他の事が全く見えなくなる氷河らしいことなのかもしれないと。 となれば、さしあたって俺がしなければならないことは、氷河の頭の腐敗を止め、奴に冷静さを取り戻させることだ。 でなければ、奴はシベリアに戻る気にはならないだろう。 俺が 氷河を連れずにシベリアに帰ったら、あのカミュがどんな反応を示すことか。 それが全く想像できないからこそ、俺は何としても氷河を連れ帰らなければならなかったんだ。 カミュは、まだ未熟だった頃の俺や氷河が とどめを刺し損ねたせいで 手負いになり凶暴になったシロクマを一撃で倒し、死んだ動物の苦悶の表情を見詰めながら『哀れな……』と涙を流してみせるような男だ。 殺されてから涙を流されても、俺は ちっとも嬉しくないぞ。 俺は、あのクマの二の舞は絶対に御免だ。 瞬か。 瞬ね。 今は その瞬とやらを マーマに匹敵するほど価値あるものと思い込んでいるらしい氷河。 その氷河に、瞬とやらの無価値を知らせ、幻滅させてシベリアに連れ帰る。 それが俺の仕事というわけだ。 頭が腐りかけている今の氷河を、マーマのことさえなければ クールと言えないこともなかった以前の氷河に戻すことが。 その仕事を遂行するために――俺はまず、このクラスの奴等から必要な情報を収集することにした。 |