「星矢!」
幼馴染みの名を呼ぶ瞬ちゃんの声が、俺の耳に飛び込んできた。
「星矢、物理室に行かなくて大丈夫なの? 僕、明日の朝いちばんにレポートを集めるよ?」
そう言いながら、グレイのブレザーを着た瞬ちゃんが瞬に近寄ってくる。
瞬ちゃん――噂の瞬ちゃんの登場だ。
しかし、細っこいというか、華奢というか、これで よく兄貴の希望に沿いたいなんて考えることができたもんだ。
星矢は『健気』と評していたが、これは やはり『無謀』と言うべきことだろう。

「いざとなったら、おまえか紫龍に泣きつく」
「もう……」
さぼり魔の幼馴染みを厳しく糾弾できない瞬ちゃん。
星矢なら『優しい』『世話好き』と評するのかもしれないが、これは立派な『優柔不断』という欠点だ。
よし、いい調子だ。
いい調子だったのに。
「瞬のこと知りたいのなら、自分で直接 当人に訊けばいいだろ」
瞬ちゃんの追求を逃れようとしたのか、仕事の進展に気をよくしていた俺に、星矢が急に お鉢をまわしてくる。
星矢は、さぼり魔なだけでなく卑怯者でもあるらしい。
おい、俺は瞬の幼馴染みの欠点は収集していないんだぞ。
それとも星矢は、これで、親切心から、俺と瞬の仲立ちをしてくれているつもりなのか。

「瞬。この片目のあんちゃんがさー」
「片目?」
「いや、俺は――」
まさか『俺は君の欠点を探っている』と本当のことを瞬ちゃんに言うわけにはいかない。
ましてや、瞬ちゃんと オトモダチになる気もない。
俺は速やかに その場から とんずらを決め込もうとした。
そして、だが、そうすることができなかった。
星矢の紹介で(?)俺の存在に気付き、その視線と顔を俺の方に向けてきた瞬の目を 真正面から見てしまったせいで。

な……なんだ、これは。
可愛くて華奢な瞬ちゃん。
それは、遠目にも傍目にも見てとれていた。
だが、瞬ちゃんは――瞬は、それだけの子じゃなかった。
ものすごい目。
信じられないほど綺麗な目。
奇跡のように澄んで、深くて、見る者の魂を その中に引きずり込んでしまいそうな目。
いったい何なんだ、これは。

顔の造作も見事なものだが、瞬は何より その目がすごかった。
実際、しばらくの間、俺は瞬のその瞳の中に 魂を吸い取られてしまっていたのかもしれない。
俺は瞬の瞳から 目を逸らせなかった。
俺は、ぽかんとしながら 瞬の瞳を凝視するという、矛盾極まりない芸当を成し遂げていた。
魂が抜けてしまったような ありさまだった俺を、我にかえらせたのは、
「あの……もしかしたら、アイザックさん? 氷河の先輩の?」
という瞬の声。
瞬が俺の名を知っているという事実が、俺の意識を現実に引き戻した。

「なんだ、瞬。おまえ、このあんちゃんのこと、知ってんのかよ?」
脇から口を挟んできた星矢に、瞬が微かに頷いてみせる。
「氷河は、転校してくる前のことを あまり話してくれないんだけど、一度だけ話してくれたことがあったんだ。ご両親がないこと、親代わりのカミュさんと お兄さんみたいなアイザックさんのこと。アイザックさんから、片目を奪ってしまったこと――」
氷河の奴、まだ こだわっているのか。
いい加減に忘れればいいのに。
負い目を抱かれたままでは、俺だって いつまでも居心地が悪い。
「いい加減、忘れればいいのに……」
考えていたことを、つい俺は声に出してしまった。

「え?」
瞬が二度三度 瞬きをして、瞳の魔法の力を更に強くする。
俺は我知らず、どもってしまっていた。
「ひ……氷河のせいじゃない。いや、氷河のせいだが、そんなことは どうでもいいことだ。俺は、い……今更 奴を責める気はないぞ」
「ありがとうございます。アイザックさんて、氷河が言っていた通り、とても強くて お優しいんですね」
なぜ 氷河のことで、瞬が礼を言うんだ。
いや、それはともかく、何なんだ、瞬の この慈愛に満ちた眼差しは。
我が子を見守る聖母マリアのそれみたいに優しくて、温かくて、綺麗で――。
聖母マリア。
ああ、そうか、それで氷河は――。

「もしかして、氷河のことを心配して、わざわざシベリアから様子を見にいらしてくださったんですか?」
「シベリアから氷河のこと心配して? ああ、それで、おまえのこと、根掘り葉掘り訊いてたのか」
おい、星矢、余計なことを言うな!
そんなことをばらして、俺が瞬に警戒されるようなことになったらどうしてくれるんだ。
それでなくても、俺は片目の恐い顔をしてるってのに。

「僕のことを?」
瞬、それは誤解だ!
いや、必ずしも誤解じゃないが、誤解の一種だ!
「ああ、さっきから、おまえが制服着てる事情とか、氷河とおまえが付き合うことになった経緯とか、そんなことをさ」
「え……やだな、恥ずかしい……」
瞬は、俺の諜報活動のことを知っても、眉をひそめたりせず、警戒した様子も見せなかった。
そうする代わりに、ぽっと頬を上気させ、恥ずかしそうに瞼を伏せた。
それは、氷河のせいで、氷河のために作った表情と仕草なのに、全く無関係の俺の心臓が なぜか高鳴る。
どうすればいいんだ。
本当に可愛いじゃないか。
マザコン氷河にはもったいないほど、致命的に可愛い――。


可愛くて、誰にでも親切で、優しくて、奇跡のような瞳の持ち主。
誰からも好意を持たれている特異な存在。
こっちは欠点の聞き込みをしているのに、俺は 瞬の褒め言葉をしか聞くことができなかった。
やっと見付けたと思った『頭が悪くて優柔不断』という欠点も、自力でレポートを完成させることの意義と意味を星矢に諭し、ついに説き伏せてしまった瞬を見た後では、ほほ無意味無効。
瞬の幼馴染みを筆頭に 誰もが 瞬を氷河に取られたと思っているようだったが、それは瞬の決めたこと、黙って二人の恋を見守るしかないと、これまた誰もが考えているようだった(ただし、瞬の兄は除く)。
瞬は、聖母マリアのような眼差しと、恋人としての可愛らしさを持ち合わせていて、マザコン氷河の恋人としては、ほぼ完璧、理想的。

グラード学園高校、転校初日。
それが、瞬に関して俺が得ることのできた情報のすべてだった。






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