「お元気がないようですが、もしかしてホームシックですか?」 部活を終えた生徒たちも ほとんどが出払った下校時刻間際。 中庭の芝生の上に寝転んで ぼんやりしていた俺に、瞬が そう尋ねてきたのは、俺がグラード学園高校に転校してきて一ヶ月が過ぎた頃。 俺が、シベリアの雪原を走る風には程遠く なまあたたかい日本の木枯らしに苛立ちを覚えていた時だった。 俺の任務も知らず、俺を 幼馴染みの身を心配している心優しい男と信じ切っている綺麗な瞳、優しい眼差し。 どうして俺は 氷河より先に瞬に出会うことができなかったんだろう。 先に瞬に出会えてさえいたら、俺は 氷河と瞬が出会うことがないように画策して、あの馬鹿の恋のせいで 俺がこんな苦労をせずに済むようにしていたのに。 だが、それは無理なことだ。 氷河が瞬に出会うことがなかったら、俺が瞬に出会うこともなかったんだから。 「そろそろ下校時間ですよ。僕、このあと、氷河や兄さんたちと お汁粉屋さんに行くんです。ご一緒しません? あったまりますよ。ホームシックなら、お話を聞いてあげられますし。紫龍は、臨床心理の勉強をしているんです」 優しい瞬の欠点――瞬の欠点さえ わかれば、氷河は瞬を嫌いになるに違いないのに。 そうなってくれたら、どんなにいいか。 だが、瞬の欠点を知る者は、この地上世界には ただの一人もいないんだ――。 そう思って 絶望的な気分になりかけた時、俺は突然 途轍もなく画期的なアイデアを一つ思いついた。 瞬の欠点を知る者は、この地上世界には ただの一人もいない。 俺は一人で勝手に そう決めつけて、一人で勝手に暗くなっていたが、本当に そうだろうか。 瞬なら――瞬本人なら、俺が知りたい その情報を知っているんじゃないだろうか。 俺は寝転がっていた芝生の上で勢いよく身体を起こし、その勢いに驚いた瞬に尋ねていった。 「ホームシックじゃない。ある事情があって、俺は今 ある人間の欠点を探しているんだ」 「欠点? そんなものを探してどうするんです。人は、いつだって人の美点を見た方が――」 ああ、そういえば、瞬は人の欠点も美点にしてしまう性癖の持ち主だったな。 だが、今は その癖を放棄してくれ。 「人の美点だけを見るのは、必ずしもいいこと、正しいことじゃないぞ。欠点がなくて完璧な人間という存在ってのは、結構 傍迷惑なものだ。そんな人間を見たあとで、我が身を顧みると、自分がみじめに思えてくる。完璧な人間というのは、他の人間を落ち込ませる存在だ」 「そんな考え方はよくないです。人は、人の欠点を見ても、ちっとも嬉しくない。でも、人の美点に気付くと、とっても嬉しい気持ちになるでしょう? 僕、氷河のせいで片目を失ったアイザックさんが氷河を許してくれてるってことを知った時、とっても嬉しかった。氷河が兄と慕っているアイザックさんが 強くて優しい人だと知ることができて、本当に嬉しかった」 「……」 そ……そんな目で、俺を見詰めるな。 俺は君の欠点を探り出して、君と氷河を引き裂こうとしている下劣な男だ。 そう、下劣。 だが、俺は、好きでこんなことをしているわけじゃない。 それだけは わかってくれ。 「俺の美点なんか どうでもいいんだ! じゃあ、君は、自分の欠点も見ないのか !? 自分には欠点はないと思っているのか !? 」 「そ……そんなことはありませんけど……」 瞬が、俺の剣幕に押されて、気弱げに瞼を伏せる。 そう。謙虚な瞬ちゃんは、もちろん自分の欠点を知っているはずだ。 「あるんだな? 君にも欠点が。君の欠点は何だ !? 」 「あ……僕の欠点は――そうですね。僕の兄は、男らしい弟がほしかったんです。でも、僕はこんなだから……。兄を喜ばせたくて、色々 頑張ってはいるんですけど、兄の期待には添えなくて……」 それは欠点じゃない。 いや、確かに欠点だ。ただし、一輝の。 こんなに可愛い妹がいるのに、それを不満に思う一輝の方がおかしいんだ。 「最近、兄さんはアイザックさんと一緒にいることが多いでしょう? 兄さんはアイザックさんが気に入っているようで……やっぱり、僕じゃ、兄さんの理想には程遠いのかなあ……って、アイザックさんを羨んでいたりするんです」 「……」 瞬が 俺を羨んでいる? それが瞬の欠点? 何だ、それは。 一輝の欠点のせいで、瞬が落ち込むなんて、そんなことはあってはならないことだ。 「そんなことはない! 一輝は いつも、君を褒めて 自慢しているぞ。瞬は強くて優しくて、氷河と付き合うのを考え直してくれさえすれば、まさに完璧だと」 「に……兄さんが……? 兄さんが、僕を褒めて 自慢? 本当に?」 「こんなことで嘘を言っても、俺には何の得もない。もちろん、本当だ」 「アイザックさん……」 瞬は――瞬は、もしかしたら、俺の言葉を信じなかったのかもしれない。 それを、俺が瞬のために作った嘘だと思ったのかもしれない。 綺麗な瞳に涙を にじませて、瞬は俺を見詰めてきた。 「ありがとうございます……。アイザックさん、優しいんですね」 綺麗な目。 瞬の綺麗な瞳。 涙で潤んだ瞬の瞳が 感謝の色をたたえて、俺を見詰めている。 瞬の瞳が、俺だけを映している。 俺は ほとんど自失して、瞬の澄んだ瞳に見入っていた。 今この瞬間、自分は世界一幸福な男だとさえ思っていたんだ、俺は。 なのに――。 「氷河のお友だちだもの。当然ですよね」 その一言が、俺を世界一空しく無価値な男に変身させた。 氷河のオトモダチだから優しい? 冗談じゃない。 俺が優しい男でも、大嘘つきでも、それは氷河自身には これっぽっちも関係のないことだ。 だいいち、氷河なんて、あんなマザコンの傍迷惑野郎のどこがいいんだ。 俺より ちょっと早く瞬に出会って、人の迷惑を顧みない強引さで瞬に迫り、嫌と言えない瞬の人の好さにつけ込んで 無理を通した超我儘野郎じゃないか。 ただ、ほんのちょっと俺より早く瞬に出会った、運がいいだけの――。 多分、その時 俺は正気じゃなかった。 氷河を 俺より早く瞬に出会った運がいいだけの男と決めつけて、氷河に追いつき、氷河を追い込すにはどうすればいいのかと、それだけを考えていた。 考えて――そして見付けた、その答え。 氷河に遅れをとっている俺が 氷河の前に立つにはこれしかないと、俺が思いついた その答え。 それは――。 「瞬、俺と結婚してくれっ!」 「は……?」 氷河に遅れをとっている俺が 氷河の前に立つ方法。 それは、氷河もまだしていないだろうことをすることだった。 いくら氷河でも、さすがにプロポーズまでは、まだしていないはず。 瞬に結婚を申し込んだ俺の大声は、中庭に響き渡り、そして、約束の場所に なかなかやってこない瞬を迎えにきたらしい氷河、紫龍、星矢、一輝を驚かせ、呆れさせ、激怒させたようだった。 「アイザック、おまえ……」 「さすがは氷河の幼馴染み――いや、先輩だけのことはある。氷河よりおかしい」 「こいつ、アタマ大丈夫なのかよ。氷河でも、んなことは言わねーぜ」 「貴様、氷河を瞬から引き離すのに協力すると言いながら、氷河の後釜に座るつもりだったのかーっ !! 」 えーい、やかましい! 外野は静かにしていろ! 今 俺が欲しいのは、瞬の答えだけだっ。 「アイザックさん……」 「もちろん、俺も君も まだ高校生、早すぎるし、若すぎるとは思うが、せめて約束だけでも」 「そ……そんなことできません」 「なぜだ !? 俺が嫌いなのかっ」 「嫌いだなんて、そんな……」 「氷河なんかより――氷河なんかより 俺の方がずっと君を好きで、氷河なんかより 俺の方が君を幸せにできるんだっ!」 そうとも。 何よりもまず、俺は、氷河よりずっと常識人だ。 なのに。 「え……?」 俺は――俺は何か おかしなことを言っただろうか。 それまで 性急な俺のプロポーズに困惑しているだけに見えた瞬が、急に 奇妙な話を聞いてしまったように眉根を寄せ、首をかしげる。 そんな瞬に戸惑い、言葉を途切らせた俺の前で、瞬は一度 切なげに その視線を芝生の上に落とした。 それから ゆっくりと顔をあげる。 再び 瞬の瞳の中の住人になった俺は、俺が瞬を悲しませるようなことをしてしまったことに気付いた。 それが何なのかは、俺には すぐにはわからなかったが。 そして、やがて わかったが。 「故意ではなかったにしても、片目を奪うなんて、取り返しのつかない過ちを犯した氷河をすら許してくださったアイザックさんが そんなことを言うなんて……。アイザックさんが氷河より僕を好きだとか、氷河より僕を幸せにできるとか、そんなことを言うことは、アイザックさんにはできません。アイザックさんは氷河ではないんですから。氷河が どれくらい僕を好きでいてくれるのか、アイザックさんにはわからないんですから」 「う……」 それは……確かにそう通りだ。 だが、常識的に考えれば。 たとえば、ロシアで、俺と氷河のどちらが変人かと尋ねたら、俺と氷河を知る者は10人中10人までが 氷河を指し示していたはずだ。 それは、日本でだって変わらないはず。 「アイザックさんは、いつも いつまでも氷河を恨み続けることができたんです。でも、アイザックさんはそうしなかった。そうせずに、氷河を許してくださった。多分、それは、アイザックさんに負わせた取り返しのつかない傷のことで苦しんでいる氷河の姿を見て、その つらい気持ちを察して、もう氷河に苦しんでほしくないと思ってのことだったでしょう。そんなふうに強くて お優しいアイザックさんを、僕は尊敬し、感謝してもいました。そのアイザックさんが どうして氷河の心を深く察することをせず、思い遣ることをせず、勝手に氷河の思いを些少なものと決めつけて、そんな高飛車なことを言うんです。もし本当に、氷河よりアイザックさんの方が僕を好きでいるというのが事実だったとしても、そんなことを言えるのは、氷河の心とアイザックさんの心を完全に見通す力を持った人だけです。アイザックさんに、そんなことを言うことはできません」 「――」 人の美点しか見ない瞬。 欠点も美点に すり換えてしまう瞬。 そんな瞬に こんなことを言わせてしまうなんて、俺は よほどひどいことを――考えなしに よほどひどいことを言ってしまったらしい。 瞬の糾弾は静かで、だが、激しくて――俺は瞬の迫力に気圧され、自分が何をしてしまったのかは理解しても、それを俺の非だと自覚するレベルにまでは、まだ至れていなかった。 ただ、これほど深く人の心を思い遣ることのできる瞬を、ますます俺のものにしたくなっただけで。 その気持ちが一層 強く深くなっただけで。 瞬が これほど悲しげな目をして俺を責めるのは、俺が氷河の心を侮辱し傷付けるようなことをしたからで(繊細とは 到底 言い難い あの氷河を、俺が傷付けたとは思わないが)、瞬が それほど――氷河の心を気遣い、思い遣っているからだ。 それくらい、瞬は氷河が好きなんだ。 同じように深く強く瞬に愛してもらえたらと俺が夢見、同じように深く強く瞬に愛してもらいたいと俺が願ったとしても、それは不思議なことじゃないだろう。 俺が ごく自然に夢見、願った、その夢、その願い。 だが、それらは あまりにも あっさり 儚く打ち砕かれてしまったんだ。 「そして、悪ふざけは やめてくださいね。若い若くない以前の問題です。結婚なんてできるわけないでしょう。僕は男なんですから」 という、瞬の衝撃の一言によって。 |