In Aqua Veritas Est
- 真理は水の中にある -

〜 杏里さんに捧ぐ 〜







日暮れ前から降り始めた雪は、夜になっても やむ気配がない。
東京では珍しい、ほとんど水分を含まないパウダースノーを受けとめて、城戸邸の庭は ほぼ白一色。
ラウンジの窓から洩れる灯りを反射して、夜の雪は きらきらと輝いている。
無数の銀色の星のように降る雪。
それらは 切ないほどに美しい姿で、静かな舞を舞い続けていた。

「我が背子と 二人見ませば 幾許か この降る雪の 嬉しからまし――といったところか」
ふいに 紫龍に声をかけられた瞬は、窓の外に投じていた視線を 慌てて室内に戻したのである。
仲間の意味ありげな微笑に出会って、瞬の戸惑いは 更に深いものになった。
「やだな、そんなんじゃないよ。場所によっては大雪で生活に支障が出てる人も大勢いるのに、そんな……」
悪いことをしていたわけではないのだから、弁解をする必要はない。
それは わかっているのだが、瞬の口をついて出てきた言葉は、誰が どう聞いても言い訳だった。

「なんだよ、それ。ちゃんと日本語で言えよ」
ラウンジのテーブルに世界最小モーターつきヘリコプターの組み立てキットを広げ、小さな部品の扱いに四苦八苦していた星矢が、ついに 自力での完成を諦めたのか、瞬と紫龍の会話に割って入ってくる。
星矢が この手の遊戯に手を出し 途中で投げ出すたび、それを完成させることになるのは いつも瞬と紫龍のどちらかだった。
紫龍が、嘆息混じりに、星矢のために日本語の解説を始める。

「ちゃんと日本語だ。現代語に訳せば、『愛する人と二人で見ることができたなら、この 降る雪が どんなに嬉しいことか』くらいの意味だな」
「へー、ちゃんと日本語なんだ」
日本語以外の何かだと、本気で思っていたわけではないだろうが、星矢が真面目に感心してみせる。
もっとも、彼が感心したのは、紫龍が訳してくれた日本語の歌の内容に対してではなく、その歌が日本語で歌われていることに対してでもなく――あの氷河相手に そんな風雅な思いを抱くことのできる瞬に対してだったろう。

瞬の“わが背子”は、10日ほど前から城戸邸を留守にしていた。
100年以上前のツングースカ大爆発に匹敵する衝撃波が、半月ほど前にシベリア東部で観測され、『おそらくは隕石によるものでしょうけど、念のために調査してきて』という沙織の命を受けて、氷河は、それが どこぞの邪神によるものでないことを確認するために、シベリアに赴いていたのだ。
沙織の懸念は杞憂で、調査を終えた氷河は すぐさま日本に帰ろうとしたのだが、ちょうどその頃 シベリアは 観測史上最多の降雪に見舞われ、飛行機の離着陸ができなくなってしまったのである。
予定では5日前に日本に帰ってくるはずだったのだが、氷河は 未だにシベリアで足止めを食っていた。

「氷河は今頃、飛行機も飛べないほど 前後左右 雪まみれの中にいるから、雪を見て嬉しがるどころか、雪を睨んで いらいらしてるだろうけどな」
雪を喜べるのは、滅多に雪の降らない地域に暮らしている人間だけである。
毎日 唸るほどの雪に 飽きるほど接している人間は、それが どれほど美しい姿を有しているものであっても、降る雪を喜ぶことはしないだろう。
人は 常に、自分の手に入らないものに価値を見い出し、有難がるのだ。
身も蓋もない星矢のコメントに、紫龍が軽く肩をすくめる。

「それは言わぬが花というものだ。余計なことは言わないでおいてやれ」
「ううん。星矢の言う通りだよ。きっと光明皇后も、雪害の苦労を知らないどころか、雪かきをしたこともない人で、安全なところで温かい服を着て、ある意味、軽率に その歌を歌ったんだろうし」
「こうみょうこうごう?」
「さっきの歌を詠んだ人物だ。聖武天皇の后、藤原不比等の娘。さっきの歌は、天皇が行幸に出て宮中を留守にしている時に詠んだ歌――だったはずだ」
「光明皇后っていうのは通称なんだけどね。光り輝くように美しい人だったから、そう呼ばれていたんだって」

何の気なしに そう言ってしまってから、瞬は すぐに自分の発言を後悔したのである。
以前、光源氏の呼び名について説明した際、星矢に『つまり、光源氏はハゲだったんだな』と決めつけられてしまったことを思い出して。
実際 星矢は、あの時と同じコメントを言おうとしたようだった。
幸い、瞬は、その言葉を聞かずに済んだのだが。
瞬が、星矢の『つまり、その光明皇后ってのは、女のくせにハゲてたんだな』を聞かずに済んだのは、時に 星矢より痛烈なコメントを口にすることもある第四の人物が その場に登場してきたからだった。






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