階段の向こう側

〜 さえさんに捧ぐ 〜







行列を見ると並ばずにいられない習性が、日本人にはあるんだろうか。
そのビルに入るたびに、俺は いつも不思議に思っていた。
海外での生活が長かったとはいえ、俺も日本人のはしくれ。
なのに、俺自身は そんな衝動にかられたことはなかったから。
フロア案内を見ると、そのビルの地下フロアにあるのはバーが1軒と ビルの中央管制室だけのはずなんだが、そこには いつも若い女の行列ができているんだ。
大抵は、地下1階から地上階をつなぐ階段の途中くらいまで。

最初に その行列に気付いたのは、2ヶ月ほど前。
古い知り合いが そのビルの7階にオフィスを構えているんだが、そこに顔を出した時だった。
夜の10時頃だったろうか。
それは さほど大きなビルじゃなく、2階から上は ほとんどが中小規模のレンタルオフィス。
弁護士事務所とか会計事務所とかが入っている、いわゆる雑居ビルで、俺の知り合いのオフィスっていうのも、ある分野限定の人材派遣業のオフィス。
『久し振りに会わないか』と連絡が来たんで、会いに行ったら、仕事を一つ頼まれて――その時が最初だった。

行列を作っているのは、大部分が仕事帰りのOLか女子大生のようだったが、それが揃いも揃って やけに気張って着飾った女たちで、くたびれた50男である俺は 違和感を覚えたわけだ。
つまり、このビルに入る人間として ふさわしくないのは俺なのか、あの女たちの方なのか――と。
初日は、そんなふうに その行列を奇異に思っただけだったんだが、知り合いから頼まれた仕事の報告のために そのビルに通うようになって、問題の行列が ほぼ毎晩できていることに気付き――俺は、その列の先にあるものが何なのか、気になりだしたんだ。
そんなことは 行列を作っている女たちに訊けば一発でわかることなんだが、なにしろ こっちは くたびれた格好をした50男。
どう見ても20代の若い女たちに声をかけることはおろか、行列に近付くことさえ はばかられる風体をしているわけで――だから、行列の謎は ずっと謎のままだった。
ずっと、俺の頭の中に引っかかっていた。

行列の先にあるのが フロア案内通りにバーなんだとしたら、それはそれでおかしいだろう。
バーなんて、この界隈には いくらでもある。
それこそ、若い女向けの こじゃれた明るいバーが腐るほど。
この界隈は、新しい電波塔ができたせいで再開発が進み、新しいビルやら店やらが 雨後のタケノコのように生まれている街なんだ。
そもそも バーなんて、並んで入るようなもんじゃない。

知り合いに訊いたら、奴も詳しいことは知らないとか。
あいつも俺の同類、やっぱり若い女には声を掛けにくいらしい。
だが、あいつは、あの行列の先にあるのは婚活バーなんじゃないかと言っていた。
バーに行く男は、仲間と徒党を組んで居酒屋に行くような輩じゃない。
高収入で、ある程度のステータスにあり、一人でいることができる男。
そんな男目当てで、女たちが詰めかけているんだろうと――まあ、すべては根拠のない推察だ。
確かに、行列を作っているのは、しっかり化粧をして、いい服を着た女たちばかりだから、その推察が完全に的外れだとは、俺も思わないんだが、その推察には 極めて重要な事柄が一つ 考慮されていない。
つまり、俺は、一度も――ただの一度たりとも――そのビルの地下に下りていく男の姿を見たことがなかったんだ。
毎日 四六時中 ビルを見張ってるわけじゃないから断言はできないが、少なくとも、女たちが行列を作っている時間帯には、ただの一度も。
ゆえに、着飾った女たちが作っている行列の先にあるのは婚活バーではない。
それが、俺の考えだ。
じゃあ、そこにあるのは何なのか。

女が行列に並んでまで欲しがるものは、服か宝飾品が定番。
あとは話題のスイーツ。
住宅街なら、食料品か日用品。
そんなイメージが、俺にはあった。
だが、女たちが行列を作っているのは、宵の口から深夜まで。
彼女等の目当てはケーキや服の類ではないだろう。
バーにしては回転率がいいのも、俺は気になった。
地下1階への階段の長さを考えれば、行列の構成人数は 常時10人前後。
ビルの面積を考えれば、階段の下にあるバーはせいぜい20席前後の小さなバーだろう。
なのに、30分もあれば 行列の顔ぶれは ほとんど変わってしまっていた。
それは、ランチタイムの飯屋や一杯飲み屋並みの回転率。
1時間の総入れ替え制というのでもなければ、ちょっと考えられない回転率だ。
俺なんぞ、夜 酒を飲みに行くと、まず 2時間は店を出ないぞ。
長居のできない店で 時間を気にしながら酒を飲むなんて 御免だからな。

もちろん、長居しないのが お約束のバーというのはある。
いわゆるショットバー ――ワンコインバーと言った方が わかりやすいか。
酒を一杯 飲んで 出る店だ。
だが、俺の経験則では、酒を一杯 飲むだけの店に入るために、女は あんなに念入りに化粧をしない。
男連れというのなら話は別、その後 別の店に流れるというのなら話は別だがな。
しかし、それを言ったら、バーに入るために行列に並ぶこと自体、俺の常識ではあり得ないことだった。
そんなふうに――様々な可能性を あれこれ考え、否定し、否定しては考えて、最後に俺が辿り着いた可能性の一つ。
それは、このビルの地下にあるバーが扱っている本当の商品は 酒ではなく、非合法な商品なのではないかということだった。
ありていに言えば、覚醒剤、違法ドラッグの類だな。

無論、普通は、そういう非合法の商売は 目立たないようにするものだ。
だが、その思い込みを逆手に取って、行列を隠れ蓑にする輩がいないとは限らない。
会社帰りの堅気のOLなんて、最高の煙幕だろう。
実際、俺は 行列を作っている女たちに近付き、声を掛けることができなかった。
世の中には、信じられないことを平気でする奴等が腐るほどいるんだ。
俺は、某反社勢力の幹部が、自分の組のために、自分の息子を正当なルートを通して警察官にした例を知っている。
貧富の差の激しい某国の貧しいスラム街で、捨てられていたオレンジの皮を争って 老人を殺してしまった10代のガキを知っている。
米国の某々カルト宗教の教祖なんて、正気の人間なら 絶対に信じないような大嘘を言って、信者から財産だけじゃなく命まで巻き上げていた。
その大嘘というのが、自分は宇宙人と地球人のハーフだというもの。
宇宙人の侵略から逃れたかったら 教団に すべてを差し出せと、その教祖は自分の信者たちに言っていたんだ。
そんな狂人の言うことを信じる人間がいるんだから、世の中、何が起こっても不思議じゃない。

俺は、日本の警察と公安に8年 在籍した後、傭兵として外人部隊に15年、各国でSPとして6年、危ない橋を渡り続けてきた。
そっち方面の事情には通じている。
このビルに オフィスを構えてる知り合いってのも、公安時代の同僚だ。 
そいつから頼まれた仕事ってのは、公安に配属された新人たちに、学校じゃ教えられないことを教えること。
要するに、爆発物やら化学兵器やらを用いて社会の秩序を乱そうとするテロリストやアナーキストたちへの対抗手段(最悪の場合は 殺す術)を教えることだ。

俺は、ガキの頃から、危険の中に身を置くのが好きだった。
ドンパチやるのが好きだった。
そして、敵や危険に勝ち、自分は強い人間なのだと思うことが。
というより、俺は、自分が強くなっていくのを実感できることが好きだったのかもしれない。
自分は昨日より強くなったと実感する時、えも言われぬ快感を覚える男で――。
が、まあ、日本じゃ 滅多に そんな場面には出会えないから、危険とスリルを求めて 日本を飛び出し、各国を渡り歩いた。
日本に戻ってきたのは、50代も半ばに差しかかり、体力に衰えを感じるようになったから。
身体能力や運動能力は、今でも、そこいらにいる20代の若造以上のものがあると思うが、20代だった頃の俺自身に比べると、その差は歴然。
思うように動かない自分の肉体に苛立って 判断を誤りそうだったから――自分が そんな不様なことをする場面に出会いたくなかったから、俺は 第一線を退いて、平和で安全な故国に戻ってきたんだ。

歳――時間。
こればかりは、いかんともし難い――人間には抗う術がない。
どれほど努力しても、もう 俺は強くなれない。
強くなれないどころか、衰えていくだけ。
その事実を自覚した時の衝撃ったら、なかったな。
酔うために酒を飲むということを、あの時、俺は初めてした。
もう、1年も前のことだ。
あの頃のことは もう思い出したくない。
だから、それは 忘れることにして。

俺に仕事を頼んできた知り合いに、例のバーでは何かヤバいことが行われているんじゃないかと言ったら、『この国では、おまえが期待しているようなヤバいことは滅多に起こらない』と一笑に付された。
おまえの想像は、婚活バーより非現実的。日本は平和な国なんだと。
俺の発想は日本人らしくない。堅気らしくないとも言っていたな。
そうなのかもしれないが――それでも 俺は、あの行列の先では、何か日常的でないことが行われているような気がしてならないんだ。
それは、ヤバい橋だけを好んで渡ってきた俺の勘だ。
その勘も、歳のせいで鈍ってきているかもしれないが。
俺のヤバい人生の絶頂期は、30代後半の頃だった。

ヤバくても ヤバくなくても――俺は ただ、気になったんだ。
好奇心が抑えられない。
正義感なんかじゃなく、あくまでも好奇心だ。
このビルの地下で、もし本当に非合法な何かが行われているのなら、俺は 自分でどうこうしようなんて考えず、善良な市民らしく 警察にたれこむさ。
これでも20年前までは公務員だったんだ。
警察には、当時の俺のかつての同僚もいる。
あの組織に今でも残っている、かつての同僚たちは 軒並み出世しているぞ。
俺と違って、どいつもこいつも、弛んだ身体になっちまっているがな。






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