沙織と別れてから、瞬は、自分に染みついている(かもしれない)ホルマリンの匂いが 彼女を不快にしなかったろうかと、今更 案じても仕方のないことを案じたのである。
専門課程に入ってすぐ、前期の間ずっと、瞬は ほぼ毎日 解剖学実習――人体解剖をしていたのだ。
夏休み明けに実施される解剖学口頭試問に備えて、瞬は 夏休み中も学内で勉学に励んでいた。
もっとも それは、“勤勉だから”というよりは、帰る故郷もなく、旅行等の趣味もない学生の必然の選択というべきものだったが。
瞬自身は平気だったのだが、解剖学実習を始めてから最初の半月ほどは、強烈なホルマリンの匂いに慣れることができずに具合いを悪くする同期生が幾人もいた。
神経質な学生の中には、ホルマリンの匂いが身体に染みついて、どうあっても消えないという強迫観念から逃れられずにいる者もいるらしい。

長かった解剖学実習。
その実習を踏まえて、今日は、午後から 解剖学の口頭試問がある。
解剖学の担当教授に300以上ある人体の部位の一つをラテン語で指定され、その部位の説明と質疑応答をする試験である。
午前中は その口頭試問の手順と試問を受ける順番の説明だけで、あとは各自の試験開始時刻まで自由に過ごすようにとの指示があった。

その口頭試問に合格しなければ、(追試の機会は与えられるにしても)きついホルマリンの匂いに耐えて 神経の磨り減る実習とレポート提出に明け暮れた前期3ヶ月以上の苦労が無駄になる。
30分ほどで終わったガイダンスの後も、瞬の学友たちは皆、階段教室に残って、テキストやノートを睨み続けていた。
皆が、それを今更ながらの悪足掻きと承知していたにもかかわらず。
なにしろ、口頭試問では人体のどの部位を指定されるか わからない。
そして、人体というものは、あまりに広大すぎ、複雑に過ぎるものなのだ。


瞬の医学部の同期生は、入学時には98名いた。
2年間の教養課程中に、そのうちの11人が 学部を去っている。
更に、解剖学実習が始まって半月の間に1名が自主退学、2名が転部。現在は84名になっていた。
家庭の事情や健康上の理由で、学校を退学、休学した者もいたが、医学部を去った14人中10人は、医師になることに対する意欲を保つことができなかった者たちだった。

継がなければならない病院がある。
あるいは、医師になって経済的優越、社会的優越を我が物にしたい。
そういった動機は、強いモチベーションになるのだろうと瞬は思っていたのだが、実際はそうではなかった。
医学部を去った学生たちの中の5名は開業医の息子たち、残りの9名も勤務医の娘か息子 もしくは 並み以上の上昇志向を持つ学生だったように、瞬の目には見えていた。
にもかかわらず、彼等は去っていったのだ。
解剖学実習を終えて、今も この教室に残っているのは、程度の差こそあれ、命の消えた人体に数ヶ月間 向き合い続けることで、医師になることの責任感と使命感を自身の内に培うことのできた学生たちだった。

二人の教授について、4人ずつの班を作り、一体の献体をミリ単位で切り刻む実習。
専門課程に入って すぐに始まった解剖学実習は、医師になる志を持って医学部に入った学生たちに、各々の死生観を問うものだった。
人は誰でも、いつかは死ぬ。
その事実を承知の上で、それでも医師になりたいという意欲と覚悟を培うことのできた者だけが、今日の口頭試問に臨むため、この教室に残っているのだ。






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