それは、しかし、今の紫龍にはさしたる重大事ではなかった。

今の彼の胸中は、氷河をやりこめるための壮大な計画だけで占められていたのだ。
“糸引き納豆ねちゃねちゃ計画”という、両刃の剣のごとく危険な命がけの計画だけで。

「ああ、じゃあ、氷河は納豆が好きなんだな」

好きなはずがない。

あの後、あの食欲を友にしている星矢でさえ、半年間は納豆を食べられなかったのだ。
一輝にいたっては、いまだに納豆に対する心的外傷を癒しきれないでいる。

まして、もともと納豆を食べる習慣のないシベリア育ちの氷河が、あの納豆プリンの殺人的威力を忘れるはずもなければ、好むはずもない。氷河が、納豆と原材料が同じだというだけの理由で豆腐も食べられないという事実を、紫龍は承知していた。

「なら、今夜の納豆づくしは問題なし、か」

にこやかにそう言って、今夜のディナーのメニューを瞬に手渡した紫龍の手さえ、実は納豆への恐怖に震えてはいたのだ。


メニューには、


納豆ドレッシングの大根サラダ。

納豆とあさりの清まし汁。

納豆衣のきすの天ぷら。

納豆とウドの竜田揚げ。

納豆とまぐろのマリネ風。

〆は納豆そば。


――と、目も覆いたくなるような悲惨なメニューが記されている。


城戸邸の厨房の料理人たちは、毎朝、その日の朝昼夕三食のメニューを瞬に提出することを日課にしていた。
もちろん、瞬に食べられない料理があったら、それを排除するためである。
彼等は、彼等のお気に入りの瞬に『美味しい♪』と微笑ってもらうためだけに、この城戸邸の厨房で包丁を握り、ソース鍋を磨いているのだから。

受け取った“本日のメニュー”に一通り目を通している瞬に、紫龍が訳知り顔で説明を加える。

「し…7月10日は納豆の日なんだそうだ」

紫龍とて、本当は、納豆の“な”の字にも触れたくはないのである。

「高タンパク低カロリー。氷河にたくさん食べさせてやれ。ねばりのある食べ物は精力もつくそうだし」

氷河を――あの傍迷惑極まりない発情無制限男の氷河の蒼白に引きつった顔を見るためでなかったなら。

そのために――ただ、そのためだけに、紫龍は、この恐怖の納豆づくしを耐える決意を固めていた。


「え?」

紫龍の言葉に、瞬がポッと頬を赤らめる。
「ぼ…僕、別に……そんな、これ以上……」

瞬の羞恥心皆無なセリフを聞かされて取り乱すことを怖れ、紫龍は即座に瞬の言葉を遮った。
「そりゃそーだ。食べる前から終夜営業OKな男に、この上納豆なんか食わせた日には、おまえの身体の方が壊れてしまう」

そう言って、紫龍は、少々引きつった笑みと共に言葉を付け加えた。
「まあ、おまえが、氷河に自分の身体を壊されても構わないと思っているとでもいうのなら話は別だが」


瞬はそれには何も答えなかった。
ただ、しばらくの間、睫毛を伏せて考え込む素振りを見せてから、ぽこっと顔をあげた。

「氷河……納豆、大好きなんだよね、きっと」

「だろうな。おまえの納豆プリンをおまえから奪い取って平らげてしまうくらいなんだから」

「うん」


全く当てにならない紫龍の言葉を信じて、瞬は“本日のメニュー”をパタンと音を立てて閉じた。






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