で、紫龍の登場である。 彼はケーキ屋さんのカタログが置かれたテーブルをはさんで、ほのぼのラブラブしている氷河と瞬をちらりと見ると、実ににこやかに、かつ、全くもって唐突に、話を切り出した。 「そういえば、知ってるか? 今日はプライバシーデーなんだそうだ。昭和35年に、元外務大臣の有田八郎が、三島由紀夫の書いた『宴のあと』でプライバシーを侵害されたとか言って、作者と発行元の新潮社を訴えたんだが、その裁判で、東京地裁がプライバシー侵害を認めて、三島由紀夫に損害賠償を命じる判決を出した日なんだぞ」 「え? あ……そーなの?」 急にそんなことを言われても、平和にラブラブしていた方としては、どう反応していいかわからない。 瞬の返事が、少々間の抜けたものになってしまったとしても、それは仕方がないだろう。 紫龍も、それに気を悪くした様子は見せなかった。 そんな前振りへの反応など、彼はどうでもよかったのである。 本題は、ここからだった。 紫龍はいったい何を言いたくてそんな話を持ち出したのかと首をかしげた瞬に、当の紫龍が告げた言葉は、 「おまえらの間にはあるのか、プライバシー」 ――というものだった。 「え?」 「おまえのことで氷河が知らないこととか、氷河のことでおまえが知らないこととか」 紫龍が何を言っているのかはわからないでもないが、彼が何のためにそんなことを言いだしたのかは、相変わらず瞬には理解不能である。 理解不能ながらも、瞬は、尋ねられたことへの答えだけは律儀に返した。瞬はなにしろ礼儀正しい日本人だったのだ。 「それは……ある――と思うけど……。僕も氷河も、今まで自分が経験してきたことや考えてたこと、全部伝えあったわけじゃないし、別にそんなことする必要もないでしょ」 瞬の答えは至極尤も。 恋人同士の二人にそんなことが義務づけられてしまったら、それこそ、自分というものを全て相手に伝えるために、ものごころついてから出会うまでと同じだけの時間を要することになる。しかも、二人分。 だが、実は、紫龍は、瞬のその“至極尤も”な返答をこそ待っていたのだった。 彼は、瞬の言葉に深く頷き、それからにっ☆と、やーな感じに北叟笑んだ。 そして、言った。 「氷河の過去の恋愛遍歴とか、気にならないのか」 「え?」 思ってもいなかった紫龍のその言葉に、瞬が実に実に微妙な表情を浮かべる。 瞬は、氷河をちらりと見て、それから、実に実にぎこちなく答えた。 「……そ…そんなこと、気にしないもの、僕。そんなこと、どうだって……。大切なのは、今、氷河が……」 いかにもぎこちない口調で、必死に建前論を吐こうとする瞬を、紫龍は冷酷に(?)遮った。 「気にならないというのも変な話じゃないか」 彼は、この二人の間に波風を立てるのが楽しくてたまらないという態度をあからさまに隠して(?)、思慮深さ120パーセントの面持ちである。 「どうして? そ…んなこと、そりゃ、気にする人は気にするのかもしれないけど、僕は……」 「おまえは?」 「そんなこと、僕は……」 ――気にしていなかったのである。 瞬は、そんなことをこれまでただの一瞬も考えたこともなかった。 たった今、紫龍にそんな話題を持ち出されるまでは。 瞬が言い澱むのを見た氷河がぎろりと紫龍を睨み、それまで腰をおろしていたソファから立ち上がる。もちろん、彼は、くだらぬ話を持ち出して、彼の大事な瞬を惑わせている長髪男を、この場から叩き出そうとしてそうしたのである。 しかし、紫龍は、場所を瞬の腰掛けている肘掛椅子の後ろに移動することで、さりげなく氷河の攻撃を避けた。 そうして、瞬の背後から、瞬の耳に、不穏の素を吹き込んでやる。 「それは理屈だろ。氷河は比べているかもしれないぞ、おまえと、以前付き合ってた相手とを」 「く…比べるって、な…何を……」 「そりゃまあ、色々と」 「…………」 紫龍に意味深な笑みを投げかけられて、瞬の戸惑いは一層激しいものになったのである。 本当に、瞬はこれまでただの一度もそんなことを考えたことがなかったのだ。 両肩を縮こまらせて膝の上で右手で左手を握りしめ、瞬は下を向いてしまった。 瞬のそんな様子を見せられて、氷河が大人しくしていられるはずがない。 これ以上紫龍に余計なことを言わせてはおけないと、氷河はマジで紫龍に殴りかかろうとした。 が、それより一瞬早く、瞬が椅子から立ち上がる。 そして、瞬は顔を堅く強張らせ、無言でラウンジから出ていってしまったのである。 当然、氷河は、紫龍を殴ることよりも、瞬を追いかけることの方を優先させたのだが、瞬は自分を追いかけてきた氷河の目の前で、ばたんとドアを閉じてしまった。 その目で、『入って来るな』と氷河に命じて。 瞬の目にそう命じられてしまっては、氷河も無理に部屋の中に押し入っていくことはできない。たとえ、瞬の閉じこもった部屋が、氷河自身の部屋だったとしても、である。 「…………」 瞬にシャットアウトを食らってしまった氷河は、他に行き場もないので一人ラウンジに戻った。 「瞬に締め出されたのか? いやー、悪かったな。そんなつもりはなかったんだが」 心にもないことを言って楽しそうに謝罪してくる諸悪の根源を2、3発殴りつけて、少しでも気を晴らそうかと氷河は考えたのだが、しかし、これは、そんなことで収まりがつく事態ではない。 それでなくても氷河は、瞬以外の人間のために、体力や思考力を使うことをあまり好まない男だった。 ある意味それは、実に賢明な措置ではあったろう。 殴られても喜ぶだけの紫龍を殴っても、報復にはなりえない。 紫龍は氷河を困らせることだけが目的で、こんな馬鹿げた話を持ち出したのであるから、腕力で憂さを晴らすようなことをすれば、それだけ紫龍の企みがうまくいっていることを示すことになり、なおさら紫龍を喜ばせるだけなのだ。 それはともかく、これは実は笑い事ではない事態である。 氷河は真剣に(無表情で)困っていた。 今、自分がどれほど瞬を好きでいるのかは、幾らでも伝えられる。 “言葉”という道具を使わなくても、瞬がわかってくれることも知っている。 自分の意思では嘘のつけない瞳を、瞬に読み取ってもらえばいいだけのことなのだ。 だが、眼差しだけでは、過去を伝えることはできないのである。 過去に自分が何をしていたか、何を考えていたか――それは、“言葉”でしか伝えられない。 そして、“言葉”を使い始めたら最後、そこには、意識してであれ、無意識にであれ、真実でないものが混じることは避けられないだろう。 真実だけを口にしても、誤解される怖れが皆無だとはいえない。 “言葉”とは、それほどに危険この上ない道具なのだ。 氷河は、とにかく、真実でないものを、瞬の前に表白したくなかった。それくらいなら、黙っている方がずっとましだと思っていた。 実際、これまではそれで何とかなっていたのである。 瞬を見詰めるだけで、瞬は氷河の心をわかってくれたし、氷河自身も、瞬の瞳を見れば、瞬が何を感じ何を求めているのかが、手にとるようにわかった。 だが、瞳だけでは、眼差しだけでは伝えられないことが、確かにこの世には存在する。 それを人に伝えるために、人は、どうあっても、“言葉”というやっかいこの上ないものを使わなければならない。 意識しなくても嘘の混じる、どれほど慎重に伝えても誤解を生む、“言葉”という不便極まりない道具を――。 口許ににやにやと含み笑いを浮かべている紫龍にムッとしながらも、あえて彼を無視した氷河は、ソファにどっかと腰をおろし、この事態をどう収集したものかと真剣に悩み始めた。 |