精神戦で満身創痍になりながら、それでもなんとか無事に帰ってきた城戸邸では、しかし、新たな試練が氷河を待ち受けていたのである。


本日の戦利品を上機嫌で抱きしめている瞬に紫龍が投げた質問が、新たな試練の発端だった。

すなわち、
「で、その熊は誰に贈るために買ってきたんだ?」
である。

「心の支えを必要としてる人」
瞬は、自分が選んだ熊の可愛らしさを確認するように、ヌイグルミを矯めつ眇めつしながら、紫龍に答えた。

「誰だ」
「兄さん」

その返事を聞いた途端に、それまで瞬と同じ長椅子にぐったりと身体を沈みこませていた氷河の眉がぴくりと微動する。

それは、氷河には、寝耳に水の話だった。
激怒を通り越して逆上ものの事実だった。
瞬がそんなつもりで熊選びに精を出しているのだと知っていたら、氷河は一瞬の躊躇もなく、あのテディベア専門店に火を放っていただろう。

瞬が一輝に贈る熊。
そんなもののために、自分と瞬の3時間もの貴重な時間が浪費(それは、まさに浪費である)されたのかと思うと、氷河は、一輝よりも、熊よりも、自分自身に腹が立って仕様がなかったのである。

「一輝がんなもん貰って喜ぶかー? 心の支えも何も、一輝って、俺たちの中でいちばん自立してる奴じゃんか」
氷河の憤怒に気付いているのかいないのか、夕食後のおやつであるキウイ大福と、夜食前のおやつであるバナナ大福を一度に口に放り込み、星矢が瞬に尋ねてくる。

「うん、そうだね」
「もゃら、みゃんでにゃ?」

『なら、なんでだ?』が、口中の餅のせいで、もちゃもちゃしている。
発された音はともかく、気持ちは、氷河も星矢に同感だった。
全くもって、『なら、なんで?』である。
瞬が兄に、到底一輝に似合うとも思えない熊のヌイグルミなどを贈ろうとする訳が、氷河には豪も理解できなかった。


が、瞬には瞬の理由があったのである。
孤独癖のある兄を、瞬は瞬なりに気遣っていたのだ。

「自立してる…って、他人に依存することを拒否してることでもあるよね。兄さんは、多分、デスクイーン島で、あんまり心を傷つけられちゃったから、大事な人を失っちゃったから、誰かに頼るとか依存するとか、そういうことを怖れてるんだと思うの。心の支えにしたいものを失うとか、拒絶されるとか、そんな可能性のある立場に自分を置くことに耐えられなくなってるんだと思うの。兄さんは、心の支えを失うことで傷付くのが恐くて、だから、誰にも頼るまいとしてる。だから……ね、これは兄さんに贈るんだ。僕だって、氷河だって、星矢だって、紫龍だって、兄さんの心の支えになりたいと思ってるよって、伝えたいから」

「…………」
もちろん、氷河は、一輝の心の支えになどなりたくはなかった。

「ね、氷河」
故に、瞬に同意を求められた氷河は、慌てて瞬から視線を逸らすことになった。
それは、絶対に瞬に知られてはならないことだったのだ。

「……ああ」
代わりに、言葉で、誤魔化す。
瞬に対してだけは嘘をつきたくない自分に、そんな手段を用いさせた一輝を、氷河は心底から憎悪した。

「……俺には、くれないのか」
視線を床に落とし、瞬を見ないで訊いてみる。

瞬は、不機嫌そうな氷河の呟きに、一瞬きょとんとなった。
それから瞬は、首をかしげながら氷河に尋ねてきた。

「どうして?」
「……」
『どうして』と問われれば、『自分が、一輝より瞬を必要としているから』としか答えようがない。
何故そんなことがわからないのかと苛立ちかけた氷河に、瞬がにっこりと微笑み返す。

「氷河には僕がいるじゃない。氷河は僕に頼ってくれてるよね?」
「……」
「僕も氷河に頼ってるから、だから、テディベアは、僕達には必要ないの。せっかく、心の支えにしている人が毎日側にいてくれるんだもの、僕は、ヌイグルミより氷河を抱きしめたいよ?」

「瞬……」
笑顔の可愛らしさが感動的なら、その言葉も感動の極みである。
冥界の最底辺より深く暗い不機嫌に支配されていた氷河は、突然、天上の最上界を軽く飛び越える高みにまで急浮上した。

視線を、瞬の上に戻す。
氷河の青い瞳を見詰め、その瞳の中の明るい輝きを確かめると、瞬はもう一度花のような微笑を氷河に投げかけてきてくれた。

氷河は突然、世界でいちばん幸福な男になり、それ故に、世界でいちばん寛大な男にもなった。
今なら、ここにふらりと現れた一輝に、瞬が手ずから熊のヌイグルミを贈ったとしても、瞬の兄を殴り殺そうとまでは思わないだろう。

だというのに。
こんな機会は滅多にないというのに。








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