「紫龍、ほんとにごめんなさい。氷河たちの言うことなんて気にしないでね。とにかく、お医者様に診てもらお?」
 
瞬は、あまりのショックに呆然自失状態の二人をその場に残し、さっさと紫龍を伴ってダイニングルームを出た。

そして。
出るなり、瞬は、態度を変えた。

「で? 今日は何の日なの?」

それまでの気遣わしげな態度を、兄弟喧嘩の原因を確かめようとする母親のそれへと。

「……瞬」

「兄さんも氷河もあんなに隠したがるなんて、よっぽど変な日なんだね」
「…………」

それは図星だった。
今日は1年365日のうちで、間違いなく五指に入る『変な日』なのである。

「あの二人のいるところじゃ聞けそうにないから、ちょっと席を外してもらったの」

なにやら考えていたのとは違う方向に状況が動いている。
形勢の不利を敏感に察知した紫龍は、とってつけたように、
「あたた」
と、瞬の前で、一輝に殴られた腹を抱えこんでみせた。

が、瞬は、紫龍のそんな様子には同情の色も見せなかった。
「そんな、わざとらしく痛がる振りしても駄目。ねえ、僕は、氷河や兄さんは僕にとってとっても大事な人だから、考えてることは大体わかるけど、紫龍や星矢も大事な仲間だから、やっぱりわかっちゃうんだよ。痛がる振りかそうでないかくらいは」

「…………」

見透かされていることを悟ると、紫龍は、それまで苦しそうに歪めていた表情を平生のそれに戻し、悪びれた様子もなくすっきりと姿勢を正した。

「あまり聡いと人は幸せになれないぞ」
とりあえず、忠告を一つ垂れてみる。
それは、瞬には無用の忠告だったが。

「わからないでいた方が幸せな時もあることくらい知ってます。氷河と兄さんが反目し合ってることになんて、気付かないでいた方が、僕も幸せでいられたよ」

「なんだ、気付いていたのか」
「気付くよ、そりゃ……。僕は氷河の目だけを見てるわけじゃないんだから」

筆者も9割方忘れかけていたが、『目を見れば真実がわかる』が、この話の、超ドリームがかった基本設定なのである。
故に氷河は、これまで、瞬に知られたくないことを考えている時には、瞬から目を逸らすことで苦境を逃れてきていた――のだが。

どうやら、それは無駄骨かつ無意味なことだったらしい。

「そりゃ、ショックだったろう。おまえの氷河が、おまえの大事な“兄さん”を嫌ってたなんて知ったら」
口振りは瞬への同情だが、紫龍が真実同情していたのは、むしろ氷河の方だったろう。
彼が必死で隠し通してきたことが、瞬にはすっかりお見通しだったのだから。

瞬は、その、口だけの紫龍の同情すらも見透かしているようだった。
「そんなショックでもなかったよ……ううん、ショックだったけど、さほど悲嘆はしなかった……のかな」

大した表情の変化も見せずに、瞬は、小さく肩をすくめただけだった。

「人と人が理解し合うのって、とても大切なことだけど、さほど大切なことでもないよね。どうせ人と人は完全に理解し合うことはできないんだし、僕だって、僕自身を完全に氷河や兄さんに理解されてしまいたくはない。僕の中には、僕以外の人に知られたら困るようなことが、たくさん詰まってるし」

瞬の意外な言葉に、紫龍の方が瞳を見開く。

「本当に自分を正しく理解してほしいって他人に望む人は、自分のすべてをその人にさらけ出してみせなきゃならないと思う。それをしないで、理解だけを望むのは、無理な話でしょう? 僕には、自分を理解してもらうために、自分のすべてを氷河の前にさらけだす勇気なんて、これっぽっちもないよ」

「…………」
それは、紫龍の抱いている瞬のイメージからは遠くかけ離れた言葉だった。
否、むしろ、対極にある言葉だった。

「でも、人は、思い遣りや優しさや寛容や偽善や嘘で、人を傷付けないようにしようって努めることができる。相手の立場に立って考えようとしたり、隠そうとしたり……。僕は、氷河や兄さんが、僕のためにそんなことをしてくれてたんだって知った時――不謹慎かな。とても嬉しかったよ」

そう言ってから、瞬は微かに目許に微笑を刻んだ。

「もちろん、僕にとっては、氷河も兄さんもとても大切な人だから、二人に仲良くしてほしいとは思うし、そうしてもらうための努力もするけど。でも――」

理解されなくてもいいと言いながら、それはやはり、理解しようと努める人間の言葉だった。

「でも、そうならなくても落胆はしないんじゃないかな。なんだか、ああやって反目し合ってる方が、あの二人は幸せでいられそうだから。氷河と兄さんは、別に誤解し合ってるわけでもないし、僕だって、僕のことで変に深刻に悩まれても困るし、それに――」

そして、それ以上に、自分と自分以外の人間の幸福を願う言葉でもあった。

「もし、氷河が危険な目に合ってたら、兄さんは僕のために氷河を助けてくれるし、その逆だったら、氷河は僕のために兄さんを助けてくれる。理解し合ってなくても、そっちの方が価値のある人間関係でしょう? 人が真に望んでることって、そういうことだと思うよ。僕が望むのも、氷河と一輝兄さんが理解し合うことじゃなくて、二人が幸せでいてくれることだもの」

瞬は、人が生きる目的というものを、そのためにどうしたらいいのかという方法論を、確固として自分の内に持っている人間なのだ。

「だから! だから、僕は、紫龍が氷河をからかうのも大目に見てあげてるの! さあ、白状して! 氷河と兄さんは、どうしてあんなに今日が何の日なのかを隠したがるの!」

こんな人間に逆らうのは、それこそ愚者の所業である。
なにしろ、相手が悪すぎる。
賢明な紫龍は、瞬の前に、あっさりと降参した。

「……氷河の方は、おまえがそれを知ったら、一日中一輝にまとわりついて、自分がおまえに放っておかれることになるだろうと不安がっているし、一輝の方は、自分が物わかりのいい兄になって、おまえと氷河の仲を許してやらなければならなくなるだろうと思ってるんだ」

「…………え?」

賢明な紫龍よりも更に賢明なはずの瞬が、首をかしげる。
知識と思考力は、似て非なるもの。
知っていることと考える力があることは、全くの別物なのである。

「いったい今日は何の日なの」

知識のない瞬は、知識のある紫龍に尋ねた。
そして返ってきた答えは。





「今日、11月23日は、『いい兄さんの日』なんだ」







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