「元気になったのに、私のところに来ないのは――。もう飽きたのか、私の救済ごっこに」

「……あ」

教皇の間と双魚宮とを繋ぐ石の階段の、いちばん薔薇の香りが強い場所に、瞬は膝を抱え込むようにして腰をおろしていた。

視線の先に、革のサンダルと白い長衣の裾が見え、瞬は緩慢な仕草で顔をあげた。
ほとんど双魚宮の足元にあるような場所とはいえ、彼が自分の宮から出てきてくれたのは、もしかすると本当に、彼を傷付けた青銅聖闘士を心配してのことなのかもしれない。

下から見上げると、彼は随分と大きく見えた。
仰々しい聖衣など着けていない方が、体躯も余程優れて見える。

こんな大人相手に、自分は何をしてやれると思っていたのだろう――と、瞬は、ほんの一瞬間だけ躊躇を覚えた。
往々にして、悩みを抱えている人間には自分が小さく感じられるものではあるが、それにしても、確かに自分は子供で、彼は大人なのである。

「僕にも……悩みがあったりなんかするわけです」

小さな苦笑を作って、瞬は慌てて立ち上がった。
石の段一つ分くらいの差では、瞬の視線は彼の肩にも届かない。

「どんな」
「え?」

アフロディーテが、そんなことに興味を持つこと自体が、瞬には意外だった。
自分の中の虚無の相手をするだけで精一杯でいるはずの彼が、そんなことに関心を抱くとは――。

だが、それは良いこと――なのだろう。
彼の意識が外に向かうことは。

悩みの内容が内容だったなら、瞬は彼に人生相談でも持ちかけていたかもしれない。
それで、彼が少しでも、虚無以外の何かに、その意思を向けてくれるようになるのなら。
自分の悩みも解決できないような子供が他人をどうこうしようとしているのかと嘲笑されることになっても、それは彼に、ささやかなブライドのかけらを取り戻させることにもなるに違いないのだ。

だが、こればかりは――なにしろ、悩みの内容が内容だった。

「どんな……って……」

瞬はほんのりと頬を染めた。
無意識に、右の指先を唇に運ぶ。

「……ふん、察するに」

アフロディーテは、瞬のその様子をちらりと横目に見て、不愉快そうに頬を引きつらせた。
意識がどこかに飛んでしまっているような瞬の腕を鷲掴みに掴みあげ、もう片方の手で瞬の身体を抱き寄せるや、まるで噛みつくように――否、文字通り、彼は瞬の唇に噛みついてきた。

そして、瞬が驚く間もなく、一瞬で飽きた玩具を投げ捨てるように、彼は瞬の身体と唇を解放した。

「……こんなことをされた。違うか」
「あ……あの……」
「相手は、昨日、この私を睨みつけてくれた、あの金髪の坊や。そうだな」

突然の苦いキスが、その意味が、瞬にはまるで理解できなかった。

「アフロディ……」
「で、そんなに深刻そうな顔をしていないところを見ると、奴はそれ以上のことはせず、君も奴を憎からず思っている」

混乱している瞬に、アフロディーテは畳みかけるように次から次へと言葉を降らせてくる。

「…………」

何も告げていないのに、アフロディーテにはどうしてそんなことまで察してしまえるのか、瞬にはわからなかった。
氷河に口付けられた自分自身が、まだ、その事実すら冷静に受け止められずにいるというのに。



だが、アフロディーテには、瞬の迷いも戸惑いもどうでもいいことらしかった。
彼は、咲き乱れる薔薇の香りの中で、ふいに酷薄そうな笑みを口許に浮かべた。
「いい復讐方法を見付けた」

「え?」

アフロディーテの手が瞬の喉元に伸びてくる。
途端に、まるで、指の先から生気を吸い取られでもしたかのように、瞬は意識を失った。





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