夜の微風が、双魚宮に薔薇の香りを運んでくる。

その香りは、自分たちを慈しんでくれた主の亡骸に静かに降り積もっているようだった。

彼が再び見い出した、生きるための力。
それは、やはり、氷河と同じものだったらしい。

同じものだったからこそ、彼はこんな行動に及ばざるをえなかったのだ。

「…………」



「……やはり、おまえも瞬が欲しくなったのか」

見ようによっては、瞬は、人の心の奥底にある醜さも弱さも知らない、未熟で、非力な、小さな子供だった。

だが、自分を不幸だと思ったことのある人間ならば愛さずにいられない何かを、瞬はその身に備えていた。
人にどれほど甘いと言われようと決して自分を変えない可愛らしい頑固さと、明るさと、優しさと、誰に対しても差別なく向けられる、偏見のない澄んだ瞳。

この瞳に愛されたなら、自分は幸福になれるかもしれない――瞬の瞳にはいつも、不幸な人間にそう思わせてくれる力があった。


今はその瞳の輝きを失ってしまっている瞬の身体を、氷河はそっと抱き上げた。
瞬が、正常な意識を保っていないことは、今ばかりは幸運だったのかもしれない。


人は、求めた人を得られないこともある。
むしろ、その方が多いのかもしれない。
だから、その人を求めることをやめて、幸せを祈ることを“愛”という行為にすり替えたりするのかもしれない。それを愛だと思おうとしているのかもしれない。

そして、それは、自分が生きるためであり、自分を絶望から守るための詭弁なのかもしれない。


瞬が教皇の間と双魚宮とを幾度も往復した薔薇の香りの漂う石の段を登りながら、氷河は、苦い思いと共に、アフロディーテの死の意味に思いを馳せていた。


だが、やはり、それこそが愛というものなのだと、氷河は思ったのである。
得られないとわかった時、人は愛の地平の場所を知るものなのかもしれない。
それを求めている限り、人は愛のすべてを手に入れることはできないのだから。
愛というものは、無限の力と広がりを有しているのだ。





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