ともかく、瞬を、この場から──王の視線の届かない場所へ──連れていかなければならない。

氷河は、僭越を承知で、玉座の下から王に退出の許可を申し出た。
「陛下。公爵閣下は、陛下に謁見を賜る光栄に緊張して、声も出ぬ様子。本日は、これで退出願ってもよろしいでしょうか」

氷河に支えられてやっと立っているような瞬を楽しげに眺めていた王が、身分をわきまえない氷河の言葉に不快の色を示す。
「公爵は合格だが、従者がよくない。反抗的な目だ。反逆者の血を受けていると聞いたが、王家に対して良からぬことを考えているのではないか? 幼い公爵は、操りやすかろう」

氷河の境遇を知った者なら、それは誰でも一度は考える、ありふれたストーリーである。
王の俗人と変わらぬ想像力を、氷河は内心で嘲っていた。

が、瞬には、それは笑い事で済まされる類のことではなかったらしい。
「そんなことありません! 氷河は、僕がこんなことに挑むのに、気が進まないふうだったんです! 名誉の回復なんて望んでないって……!」

それまでろくに口もきけずにいるようだった瞬の剣幕に、王が僅かに片眉をひそめる。
「それが、公爵を逆の方向に動かすための策略の言葉でないと誰に言える」
「僕に! 僕が断言します! 僕は、氷河の言葉を信じてます!」

王は、瞬のその自信に、無表情のまま当惑していた──しているように見えた。
彼は、それを、人の心の裏を知らない子供のたわ言と断じてしまうことができなかったのかもしれない。

とってつけたように、皮肉な笑みを、彼は無理に作った。
「飼い馴らしたものだ。よもや、反逆者の息子風情が、既に公爵に手をつけた後などということはあるまいな」

退廃の王宮の主は、根本は軍人らしい。
強さの測れない相手への攻撃をしようとは考えなかったらしく、彼は攻撃の矛先をあくまでも氷河に向け続けた。

氷河が、王の言葉を下種の勘繰りと軽蔑するだけで済まなかったのは、王が勘繰った事実はなくても、氷河自身、それを考えたことはあったから──だった。
同じことを考えている自分が高潔で、王が下劣とは言いきれない。
ただ、氷河の思いは決して叶うことはなく、王はその気になれば今すぐにでも瞬を自分のものにできるだけの権力を有しているが故に卑しい──という違いがあるだけなのだ。

「私が瞬様に手をつけるとは、いったいどういう意味でしょう。瞬様は、この国において、陛下に次ぐ地位にある尊いお方。私ごときにお目をかけてくださることは、実に畏れ多いことですが、なにぶん公爵家は財政が逼迫しているため、高貴な方々との交際もままならぬ有り様で──」
内心の動揺を表に出さずにおく技術は心得ている。

王は、右手をあげて、氷河の言葉を遮った。

「身分か……。まあ、こだわる者共にはこだわらせておいた方が、我々のように上位階級に属する者には好都合だが、身分など、人の持つ資質の前には無価値なものだろう」

そんなことを言えるのは支配階級に属する者たちだけだという反駁を、氷河は言葉にはしなかった。
――言って、どうなるものでもない。


「前公爵は、その資質に欠けていた。私をおだてあげ意のままに動かす術を、知っていながら駆使しなかった。国の行く末を案じて正論ばかりを吐く、その愚かさと忠臣ぶりが私は気に入らなかった。だから、私はあやつを王宮から追放したのだ」
「…………」

叛意も私心もないことを知り、忠誠を疑っていたわけでもないのに、王は父を遠ざけた――。
瞬は、王のその言葉への驚きを隠せない様子で瞳を見開いた。


「ハーデスが私の気に入りなのは、その点、あやつは利口だからだ。あれは、前公爵が持っていなかった狡猾さを持っている。しかも、私を安心させるために弱みをさらしてみせることも忘れない。それがわかってはいても、敵にまわしたくないタイプだな」

私心なき忠誠よりも、狡猾と不実を好むと告げる王の真意を、瞬は測りかねているようだった。
そんなふうに、人の心の醜い部分に安堵する人間の心理が、瞬にはわからないのだろう。
困惑しきっている瞬の横顔を、氷河は複雑な気持ちで見詰め、憂慮していた。
人にそんな感情があることを、できれば氷河は瞬には知らせたくなかった。

「公爵は、その純真さと可憐さが武器か? だが、それだけでは、ハーデスには勝てまい。私も、2、3度寝て、綺麗なものを汚す楽しみを味わったら、飽きて放り出すやもしれぬ」

何も、知らせてはならなかった。

「──こうして陛下の前に立っているだけでも、公爵閣下は、王への畏敬のために震えております。陛下のご寵愛を賜る光栄に浴したりしては、閣下の心臓は緊張のあまり張り裂けてしまうに違いありません。野に咲く花は手折ってしまえば萎れるばかり、分別のある者は触れようとはせぬものかと──」

王が再び、氷河の言葉を遮る。
「公爵の従僕の弁が立つことはよくわかった。公爵には、ハーデスに劣る部分を補完する参謀がついているというわけだ」

その程度の弁舌で王の意思を曲げることができるかと言うように、彼は肩を揺すってみせた。

「よかろう。いい勝負になりそうだ。5年前に王家の直轄領に組み込んでいた領地の一部を公爵家に返そう。公爵の騎士殿には、選定儀式まで仕事はせずともよい。公爵を磨きあげるのに力を尽くすがいい」
「私は騎士ではありません。ただの──」
「王の言葉はそのまま命令だ」

それは、つまり、たった今から氷河を騎士の身分に叙するということである。
無論、それは名誉以外に領地も俸禄も与えられない身分ではあるのだが、しかし、反逆者の息子に対して破格の対応であるには違いない。
「……ありがとう存じます」

氷河が頭も下げずに謝辞を告げると、王は謁見の間の扉前に佇立していた侍従に、謁見の終わりを目で合図した。

途端に、張り詰めていた気が緩んだのか、瞬の身体がふらつき、氷河はそれを王に悟られぬように片手で支えた。

そのまま退室しかけた二人の背中に、王が皮肉が勝った声を投げてよこす。
「ああ、騎士殿。で、そなたの分別は信用していいのか」

「……私は身分にこだわる小物ですので」
「高貴な公爵様に手は出せぬか」

王の揶揄を、氷河は聞こえない振りをした。




臣民に慕われるような徳の持ち合わせはないようだったが、王は決して暗愚ではない。
その性癖には眉を顰めざるを得ないが、しかし、この国をここまで強大にしただけの才覚を認めずにいることもできない。

だが、王が、瞬とは相容れない世界の住人であることも事実である。
王は、瞬にとって害毒でしかない。

できるなら二度と瞬に会わせたくない下劣な男の手と目から瞬を守ることが、さしあたっての氷河の最重要課題になりそうだった。






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