その身を、王から他の男の手に渡されて、瞬は怯えていた。
彼が王より残虐でないという保証はない。

「……だから、私の言うことを聞いていればよかったのに」
片手で、寝台の上に瞬の身体をなぎ倒すと、ハーデスは低い声で瞬を諌めた。

「ハ……デス。やめてください。駄目、氷河がいるのに。氷河が──」
「ああ、自分の愚かさで、公爵殿に最悪の鉄枷をはめた無能な男だ。公爵殿には何の罪もないのに。公爵殿は、あんな男のどこがいいんだ? 理解に苦しむね」

「ハーデス……」

瞬の瞳に涙があふれてくる。
なぜ瞬が泣くのか、ハーデスにはわからなかった。
その涙が瞬自身のためのものなのか、それとも氷河のためのものなのかさえ。
いずれにしても、それはハーデスのための涙ではない。
それだけは彼にもわかっていた。

「……今になって泣くくらいなら、最初からあんな愚かな男など見捨てていればよかったんだ!」
「何でもするから、氷河をどこかに連れて行って。お願いです……!」
「あれは、君が泣いてやるほどの男じゃない!」

それでも、瞬の涙は止まらない。
それが誰のための涙でも──やはり、ハーデスには、瞬の涙を見ているのは辛かった。

人を愛し信じることを軽蔑している王に何と思われるか──ふと、そんな思いが頭をよぎったが、王の嘲りより、瞬の涙の方が、今のハーデスには重大事だった。

「……泣かないでくれ、公爵殿」
王の嘲笑を覚悟して、瞬にかける言葉の声音を変える。

「ひどいことはしないから。王に逆らうのは得策じゃない。それはわかるだろう?」
「やだ、こんな……」
「いいから、目を閉じなさい」
「氷河には見られたくない」

「目を閉じて!」
強く命じられて、瞬は、しゃくりあげながらもハーデスに言われた通りに、その瞼を伏せた。

「こんな異常なことをまともに受け止めるのはやめるんだ。君の心が壊れてしまう」
瞬の頬に手を添えて、瞬の心を静めるために、できるだけ穏和に響く声を作る。

優しさに飢えていた瞬は、ただそれだけのことでハーデスへの恭順を示し始めた。
「あ……」
「目を閉じて、君のいちばん大事な人の姿を思い浮かべなさい」
「氷河……?」
「そうだ」

瞬に頷きながら、ハーデスは漆黒の目で、扉の前に立っている氷河を睨みつけた。
これ以上瞬を傷付けたくなかったら、声を発するなと、気配も殺していろと、視線で命じる。

瞬のためを思うならそうするしかない──ということは、氷河にもわかってきていた。

氷河の目の前で、ハーデスが瞬に口付ける。
「これは、騎士殿のキスだ」

瞬は、為されるがままだった。

それは、瞬にとっては、確かに氷河のキスだったのだろう。
そんな言葉をすぐに信じてしまえるほど、信じずにはいられないほど、瞬は弱くなっているのだ。
氷河が牢に入れられていた間、瞬は、王に冷酷な屈従を強いられて、プライドも判断力も奪われてしまっていたに違いない。


それは、氷河の知っている瞬ではなかった。
素直だが、意思の力が失われてしまっている。

誰が、瞬を──あの、健やかで生気に満ちていた瞬を──こんなふうに変えてしまったのかと問われれば、それは自分だと答えるしかない。

それは、他の誰の罪でもなかった。






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