瞬の戸惑いと、氷河の葛藤。
ぎこちなく、だが、表面上は穏やかに、以前と変わりなく、時間は過ぎていった。


「――騎士殿の忍耐は続いているようだな。それとも、そろそろ降参か?」

ハーデスが公爵邸の庭に姿を現したのは、そんな時間が数日分を重ねたある日の午後だった。

「貴様、何しに来た」
「愛しの公爵殿を心配してきたに決まっている」
「貴様に会ったら、せっかく全てを忘れかけている瞬様が混乱する」
「だが、私が何事もなかった振りをしていたら、公爵はあれが夢だったと更に確信できるようになるだろう」

ハーデスを――自分の振りをして瞬の身体を汚した男を瞬に会わせるわけにはいかない。
何よりも、氷河自身が、ハーデスを見ていたくなかった。

氷河が、瞬の目に触れる前にハーデスを追い帰そうとした時、間の悪いことに、瞬がテラスに姿を現した。
「氷河……?」

「やあ、公爵殿。相変わらず、お可愛らしい。お勉強ははかどっているのか?」

瞬の悪夢の記憶は完全に払拭されたわけではない。
ハーデスの姿を認めると、瞬の頬からはさっと血の気が引いていった。

「あ……」
「ライバルの偵察に来たんだが」

ハーデスと氷河は、無論、瞬時に、それぞれの腹の底にある感情の全てを表面から消し去った。

氷河を見、ハーデスに視線を戻し、瞬が困惑を隠しきれないままに、虚ろな返事をする。
「順調……だと思います……」

「馬には乗れるようになったのか? 初めて王宮に来た時、公爵殿は騎士殿の馬に同乗しておいでだったが。まあ、あれはあれで可愛らしかったけどもね」

「氷河が……小さな馬を選んでくれたの」
「では、私と遠乗りでもどうだ?」
「あの、でも……」

悪夢の時間の中で、瞬の身体を狂喜させたのは、ハーデスではなく氷河だった。
だが、その氷河の声は、今瞬に語りかけてくる男のそれだった。

思考が錯綜して恐慌をきたしそうになり、瞬は氷河の腕にすがろうとして、その手を伸ばした。
それと気付いた氷河が、僅かに身を引く。

「あっ……!」
よろめいて転びかけた瞬の身体を、その手を避けたはずの氷河が抱きとめる。
氷河の不審な挙動を訝るハーデスの前で、氷河は、気遣わしげに瞬の身体を支え起こした。

「大丈夫ですか、瞬様」
「あ……うん」
「どこかにお身体をぶつけてはおりませんか。痣になっては大変です」
「うん、平気……」

瞬自身、氷河の所作を怪訝に思ったのだろう。
声に、困惑が混じっている。
氷河は、しかし、素知らぬ振りを続けた。

「大事なお身体なのですから、もう少し注意深くおなりください。先日も馬を駆けさせすぎて落馬されたばかりだというのに」
「えっ?」
「馬場ならともかく、遠乗り先で。身体のあちこちに痣を作られたではありませんか」
「僕が?」
「ああ、お忘れなのでしたね」
「…………」
「しばらく、ぼんやりしておいででしたから。少し、頭に衝撃を受けたご様子でした」
「そうだった……かしら……?」
「落馬のことは忘れた方がよろしいですね。馬に乗ることを怖れるようになってはいけませんし」

「…………」

それは、瞬には全く記憶の中にない出来事だったのだろう。
狐につままれたような顔をして、瞬は虚空に視線を投げた。






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