それは一瞬の出来事だった。 王の横にいた王妃が、ドレスのどこかに忍ばせていたらしい短剣をハーデスに放り、それを受け取ったハーデスが、王の眼前で短剣を一閃させる。 その刃は、杯を盆に戻しかけていた王の両目を、いっそ小気味よいほどの鋭さで斬り払った。 空になった杯が床に転げ落ち、王が呻きながら、鮮血の迸る目を押さえる。 ハーデスは、玉座から床に崩れ落ちた王の喉許に刃を押し当て、王を睨んだまま氷河に尋ねてきた。 「騎士殿、この酒に何を入れた!」 選定場に居合わせた者たちは、思いがけない出来事に声も失っている。 「――男の……機能を失わせる薬だ」 瞬の視界に傷付いた王の姿を入れないように、その身体を抱き寄せて、氷河はハーデスに答えた。 氷河の返答を聞いたハーデスが、選定場に高笑いを響かせる。 「実に楽しい復讐を考えたものだ。だが、無意味だったな。王の命は、この場で尽きる」 「ハーデス……王妃……?」 視力を奪われ、喉許に短剣を突きつけられている王は、ハーデスの行動よりもむしろ、質素と従順だけが取りえの王妃の反逆に驚愕しているようだった。 ハーデスが、その王に向かって、吐き出すように告げる。 「自己紹介がまだだったかもしれないな、陛下。私は、貴様に王子にしてもらわなくても、既にこの国の王子だ。貴様の血と王妃の血によって」 「なに……?」 王の側に寄るに寄れず、侍従長も近衛の兵士たちも、その場に棒立ち状態だった。 ハーデスの言葉など、聞こえてはいても、理解には及んでいない様子である。 「母上は、2人の子を奪われてやっと、貴様に逆らうことを考えられるようになったんだ。事前に死児を用意し、私の身代わりに仕立てあげ、跡継ぎがなくて断絶させられそうになっていた主席侯爵家に私を預けた」 「私の息子だというのか、そなたが」 「実に不愉快な事実だがな」 「氷河……」 瞬は氷河にしがみついていた。 王の血を見ずに済んでいるせいで、瞬はハーデスの言葉の意味を把捉することができていた。 その場で、ハーデスの言動を理解できていたのは、瞬と、ハーデスの殺意を知らされていた氷河だけだったかもしれない。 言われてみれば、ふたりは似ていた。 黒い髪と黒い瞳。 退廃しきった宮廷の空気がふたりを似せて見せているのかと思っていたが、事実は、それは血の為せる業だったのだろう。 王自身はそうと知らなかったにしても、実の親子で爛れた関係を強いられていたというのなら、ハーデスが王を嫌悪するのも当然のことに思われた。 前王の呪詛が実現しようとしていた。 |