「都に胡の軍が迫って来ていると聞きました」

自分の他に誰もいない白い霧の中で不安な一夜を過ごした瞬は、翌朝早くに、兄の居間へと足を運んだ。
朝参に出る準備をしていた瞬の兄は、思い詰めた顔をしている弟を、だが、いつもの通りに子供扱いして、まともに相手をしてくれない。
彼は、瞬の懸念よりも、書見台の上に置かれた令書の草案の方に気をとられているようだった。

「誰がそんなことを言っているんだ。無責任な」
「でも、みんながそう言ってます」
「皆とは誰だ。この宮から追い出してやる」
「…………」

そんなことをされたら、後宮には女官が一人も残らないことになる。
が、いったん言葉にしたら、どんな決定でも断行しかねない兄を知っている瞬は、帝の質問に答えることはできなかった。

「――その中に、氷河という名の人がいるかどうかわかりませんか」
瞬は、遠回しに、兄から胡軍のことを聞き出すことを諦めた。
何にも優先して確かめたいことを、単刀直入に兄にぶつける。

瞬の言葉を訝った皇帝は書見台から視線を逸らし、初めてまともに瞬の顔を見てくれた。
「氷河……? 胡人の中に、そんな名の者がいるはずがない。奴等の名前はどれも無駄に長くて、とても正確には発音できないようなものばかりだ」
「え……」

胡軍が都に迫って来ていることを兄帝が自分に知らせてくれないのは、子供が心配してもどうにもならないことで、弟を不安がらせまいとする心遣いなのだと思うことができた。
だが、そんな名の者が胡軍にいるはずがないという断言は、弟への気配りから出る言葉ではないだろう。
それは、ただの事実――あるいは、根拠のある推察――でしかあるまい。

その事実が――もしかしたら推察にすぎないのかもしれないが――瞬をどうしようもない不安の淵に追いやった。


氷河は、瞬に会ったことがあると言っていた。
だが、冷静に考えれば、それはありえないことなのである。
瞬には、氷河に会った記憶がなかったし、王宮どころか後宮からも外に出たことのない瞬を、胡の人間が垣間見ることも不可能である。
後宮には、皇帝や子供以外の男子は入れないのだから。

では、以前瞬に会ったことがあると、瞬の夢の中で告げたあの胡人は、いったい何者なのだろう――?


西域には、夢で人の命を奪う魔がいるという。
人間の夢の中に入り込んで、妖しい夢を見せ、精力を奪っていく夢魔。

「僕は……夢魔にでも魅入られていたの……?」
瞬は、混乱のために半ば自失して、重い足取りで兄の居間を辞した。

それでも――人外の魔物でもいいから、瞬は氷河に会いたかった。





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