このまま無為に時を過ごしていると、何事かを為す前に自分は衰弱死してしまう――。
そう感じた瞬が、再び兄帝の許を訪れたのは、都の内に胡人の影を見た者がいるらしいという女官たちの内緒話を耳にした日の午後だった。

「本当のことを教えてください! 胡の軍が来てるんでしょう? もう戦は起こってるの? いったい、どれだけの兵が命を落としてるんですかっ !? 」

元凶は自分かもしれないのに、どこまでも子供扱いされて蚊帳の外に追いやられているのには、もう耐えられない。
その思いが、瞬の口調をいつになく険しいものにしていた。

しかし、兄帝は、この期に及んでもまだ、瞬に王宮の外の様子を知らせようとはしなかった。
「瞬。だから、それは誤解だ」
「僕、戦を止めに行きます!」
「何を言い出すかと思えば……。そんな馬鹿な考えは捨てろ」
「僕は、今まで何もしなさすぎました。兄さんが庇ってくれることに甘えて、何も知ろうとせずにいた。僕は、仮にもこの国の太子なんです! 僕は、戦をやめさせるために何かをしたい! 止めても無駄です。僕は、胡の軍の将に会いに行きま――」
「駄目だっ! あいつの目的はおまえ自身なんだぞっ。おまえをみすみすあいつの許に送り込んだりできるかっ!」

玉座の間に、漢の皇帝の怒号が響く。
侍従や近習を下がらせていたせいもあって、瞬の兄は、皇帝の威厳を保ち続けることを早々に放棄してしまったようだった。

「あいつ……って、誰ですか?」
今度の胡軍侵攻には、何か特殊な――瞬には知らせられない特別の――事情があったのかもしれない。

瞬が兄に問うと、瞬の兄は音を立てて舌打ちをし、それから、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……胡人の統領だ。本国には引退間近の父親がいるらしくて、正式にはまだ統領ではないらしいが、実質的にはあいつが胡の軍を率いている」

「その人の名前……は……?」
こんなことになってもまだ、氷河の実在を信じるための材料を求めずにいられない自分を哀れみながら、それでも瞬は、一縷の希望を抱いて兄帝に尋ねた。
瞬の兄の答えは、瞬の期待していたものではなかったが。

「名前? ああ、――という馬鹿者だ」
「…………」

瞬の兄が口にしたそれは、『氷河』ではなかった。
耳慣れず、発音も漢の国語には存在しないもの。
瞬には、その名を正確に聞き取ることさえできなかった。

瞬は少しばかりの――否、かなりの――落胆を覚えた。
だが、それが氷河でなくても、見知らぬ国の暴君だったとしても、瞬の覚悟は決まっていた。
「僕が胡軍に降れば、戦は収まるんですね」

人質でも、ただ殺されるための生け贄としてでもよかった。
そこに氷河がいなくてもいい。
それで胡軍の侵攻を止め、戦いをやめさせることができるならば、それこそが、夢に溺れ続けていた自分の贖罪だと、瞬は思っていた。

「僕、行きます。それで戦が終わって、誰も命を落とさずに済むようになるのなら」
壮絶な覚悟で、瞬は、兄に、自らの決意を告げた。

悲壮この上ない目をしている幼い弟を見やって、漢の皇帝が眉をひそめる。
それから彼は、微妙に顔を歪めて、瞬に尋ねてきた。
「瞬、おまえ、何か誤解をしていないか?」
「誤解?」
「戦だの命を落とすだのと大袈裟な……。おまえが心配するようなことは、本当に起きていないんだぞ?」
「嘘っ! 胡軍が都に迫ってきてるって、みんなが言ってます!」

なぜ、どうして兄は、これほど重要な大事を、仮にも一国の太子に対して隠し通そうとするのだろう。
瞬は、そこまで兄ら子供扱いされている自分が情けなくてならなかった。


だが、そんな瞬の訴えに対する皇帝の言葉は、瞬の想定外のものだった。

「胡軍と言っても、ほんの2、3人だ。馬鹿統領とその側近が1人2人。胡の本隊は、国境の辺りで野営している。でなければ、いくら神出鬼没が身上の胡の軍でも、北の国境からこの長安まで、こんな短期間で移動できるはずがないだろう」
「え……?」
「戦も何もない。誰も命を落としたりなどしていない」
「ほ……ほんとに……? 本当に胡の軍との間に戦は起こってないの……?」

兄の言葉を信じていいのかどうかが、瞬にはわからなかった――否、信じられなかった。
弟を言いくるめるために、兄が嘘をついているのだとしたら、瞬は、もはや、自分自身を、王宮に飾られている人形以下の存在なのだと思うしかない。

瞬は、玉座の間の磨き込まれた石の床の上に、涙をひとつ零した。





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