氷河が、その場に、自分たち以外の人間がいることを思い出したのは、瞬との長い口付けを交わし終わってからだった。

照れもせず、悪びれる様子もなく、彼は漢の皇帝に向かって言い放った。
「一輝! 約定は忘れていないだろうな」
尊称でも実名でもなく、俗称で、漢の皇帝を呼びつける。
人に命令を下すことを仕事にしている瞬の兄が、胡人の統領を不愉快に感じるのも致し方ないことだったかもしれない。

「よもや、漢の皇帝が誓約をたがえることはあるまい。瞬はもらっていくぞ!」
「ば……馬鹿も休み休み言えっ! 瞬は、漢の太子だぞ! 俺亡き後、この国の帝位を継ぐ権利を持ったたったひとりの……」
「貴様が頑張って、自分の子を作ればいいだろう。瞬がいなくなれば、漢の後宮も華やぎがなくなるだろうし、少しは女たちを喜ばせてやれ」

「余計な世話だっ! 誰か、この無礼者を捕えて牢にぶち込めっ!」
激怒した皇帝の命令を聞きつけて、その場に駆けつけてくる兵は、漢の王宮にただの一人もいなかった。

「悪いな、警備の兵には全員寝てもらっている。漢の兵は本当に能無しばかりだ」
「うぬ……っ!」
嘲るような氷河の物言いに我慢の限界を通り過ぎたのか、瞬の兄は、自らの手で、玉座の脇に飾られていた剣を握りしめた。

が、その剣も、
「兄さん! 氷河を傷付けるのはやめてくださいっ!」
氷河を庇うように彼の前に立つ弟に妨げられて、振りおろすことができない。

「瞬……」
瞬の兄には、弟のその言動が、まるで理解できなかったのである。
どう考えても初めて会う異邦の男に瞬が示す親しさも、兄に逆らってまで無頼漢を庇う必死の眼差しも。
漢の国益を考えれば、胡人の統領を傷付けるのは確かに得策ではなかったが、瞬がそんなことのために、異国の礼儀知らずを庇っているようには見えなかった。

いずれにしても一輝は、漢の皇帝としても、瞬の兄としても、氷河を成敗することはできなかったのである。
やけになって、彼は、手にしていた剣を床に叩きつけた。


そこに、氷河の部下らしい青年が、なんと馬に跨ったまま、もう一頭の馬を引いて、漢の皇帝の御座所に飛び込んでくる。

「お……王宮内で馬を走らせるなど、まともな人間のすることじゃないぞ、貴様っ!」
成敗することが叶わないのなら、一輝にできるのは、氷河への罵詈雑言を尽くすことだけだった。
“まともな人間”でない氷河には、それも蛙の面に水というところだったが。

氷河は、仲間の引いてきた馬に飛び乗ると、その手で瞬を抱えあげ、自分の前に横座りに座らせた。
「まあ、年に一度くらいは里帰りさせてやる。その時までに、可愛い甥っ子でも作っておいて、瞬を喜ばせてやるんだな」
「に……兄さん、ごめんなさいっ! 後で、必ず手紙を出しますからっ!」

それは、あっと言う間の出来事だった。

玉や黄金で飾り立てられた漢の王宮の長い廊下を、馬が走り抜けるなど、未央宮造営以来の椿事だったろう。
ここまで阿呆な真似をされてしまうと、真剣に氷河の相手をすることの方が愚かな行為に思えてくる。

漢の皇帝は、これほどの馬鹿と関わり合わなければならない時代と立場に生まれてしまった我と我が身に同情した。
それから彼は、瞬の異国での身の振り方と権利を守る方策を講じるために、回廊で寝込んでいる無能な警備兵を叩き起こして、外交担当の臣を呼びに行かせた。





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