それから数日後。 学校の門前で、僕は、黒い車の運転手に呼び止められた。 氷河だった。 「乗りなさい」 有無を言わせない威圧感が、彼の声にはあった。 ううん、違う。 僕を従えさせるのは、彼の声じゃなく、その眼差しだ。 何をされたわけでもなく、何を言われたわけでもないのに、僕は氷河の言う通りにするしかなかった。 一緒にいたクラスメイトに、とってつけたような笑みを投げて、僕はさよならを言った。 怪訝そうな顔をしている星矢をその場に残し、氷河の運転する車が静かに走り出す。 車は僕の家の方に向かっていた。 「お父上にお貸しする約束をしていた資料を渡しにご自宅まで出向いたんだが、出張で広島の方に出掛けていると言われたんだ」 「あ、はい。父は昨日から――」 土を掘り返したら、また何か出たんだろう。 自治体から調査員が来る前に見ておきたいって言って、父さんは昨日の夕方、嬉々として空港に向かった。 仕事に取り掛かるたびに、社長が現場に飛んでくる会社――。 社員には迷惑な話だろう。 ホテルの手配も、大抵は現地の責任者任せだし。 父さんは抜き打ちの視察を兼ねているつもりでいるし、実際、企業のトップが頻繁に現場に足を運ぶことは、そう悪いことではないんだろうけど。 「アポイントメントをとっていたわけではないから、それは仕方ないにしても、事情を知らない使用人に預けて粗略に扱われるのも困るものなので、君に預かってもらおうと思ったんだが」 「お預かりします。でも、送っていただかなくても――」 「俺の住まいがこちらなんだ。一度、資料を持ち帰ってから、外出先で君に預けることを思いついた。取りに寄る」 「この近くにお住まいなんですか?」 「住宅は都内に何軒か構えている。住居というよりは、倉庫代わりなんだが」 「…………」 そんなお金があるのなら、倉庫を借りたらいいのにと、僕は思った。 空調完備の倉庫や貸し金庫が、世の中にはいくらでもあるんだから、と。 僕は、おそらく、父さんなら興味も示さないようなことを、彼に尋ねていた。 知識と そして、どうやら氷河もそうだったらしい。 「有馬家の末裔だという君の母上は――亡くなったのか?」 「はい。僕が小学校にあがる頃に」 「寂しいか?」 氷河も僕と同じに常識人で俗人ではあったらしいのだが、でも、常識人がそんなことを訊くものだろうか。 「……いいえ」 そんなこと訊かれても、寂しいなんて答えられるわけがない。 高校生にもなって、母さんが恋しいなんて。 僕は少し機嫌を損ねて挑発的な気分になった。 そして、だから、仕返しのつもりで、今度は僕が彼に尋ねた。 「有馬さんは、ご家族は?」 「氷河でいい。家族はいない」 「寂しいですか」 「とても」 「え……」 あんまりあっさり肯定されて、僕は一瞬きょとんとした。 そんな僕に、氷河が、バックミラーを通して、訝るような視線を向けてくる。 「それがどうかしたのか?」 「――寂しくたって、強がるものだと思っていました……男なんだし」 「瞬はそうなのか」 「…………」 僕が答えられずにいると、氷河はそれ以上は何も言わずに、何かを含んでいるような笑みを作った。 僕が彼に何も答えることができなかったのは、もしかすると、氷河に初めて名前を呼ばれたことに、戸惑いと緊張を覚えていたからだったかもしれない。 僕は、黒い車の助手席で、少し身体を縮こまらせた。 ハンドルを握っている氷河の指が、手入れが行き届いていて、長くて、とても綺麗だった。 ──もちろん男性としてだけど。 僕は、なぜだか、そんなことの観察に気持ちを集中していた。 氷河の強い視線から、意識を逸らすために。 |