「まあ、簡単に言えば、プラシーボ効果の実験ということね。これは、人間の思い込みと薬の効能の関係を探る実験だったの」
沙織のその説明で、紫龍は即座に沙織の意図を理解した。

「プラシーボ効果って何だよ?」
意味不明の単語のせいで、今ひとつ状況把握ができていない星矢が、脇から口を挟んでくる。

星矢への紫龍の説明は、まるで自分自身の混乱を整理するためのもののようだった。
Placebo プラシーボというのは、『 I shall please 』──私は喜ばせるでしょう──という意味のラテン語だ。『偽薬効果』と訳すことが多いかな。病気の患者に、病気を治す薬だと言って、何の薬利作用もない薬を飲ませると、何の効果もないはずの薬が、病気を治すことがある。この薬は病気に効くという思い込みが、病気を治してしまうんだ。まあ、そういうことだ」

「なんで、そんなことしたんだよ?」
プラシーボ効果の意味は理解できても、星矢は相変わらず、この実験の目的を理解できないままだった。
その点に関しては、紫龍も同様である。

「グラード財団の医薬品部門の今年度の予算の配分を決めるためよ。研究費と宣伝広告費の」
沙織の意図など知らずにいた方が、星矢と紫龍は幸せでいられたかもしれない。

「研究開発部門のメンバーは、効果のある薬品を作りさえすれば、宣伝広告なんか打たなくても製品は売れるはずだから、その分を研究費にまわしてくれと言い張るし、企画宣伝部門の担当者は、広告の力を侮るなと言い張るしで、今期の予算の配分を決定できずにいたのよね。でも、医薬部門に割り振れる予算額は決まっているから、研究費と宣伝広告費の両方を増やすことはできない。だから、試してみたの。宣伝にどれほどの力があるのかを」

「──で、結果はこうだった、と」
「そういうことね。科学的に効能が証明されている薬でも、効くと思わなければ効かないし、ただの塩水でも効くと思えば身体にまで影響を及ぼす。無論、効果的な宣伝を打たなければ、宣伝広告の意味はないわけだけど、今回の実験では、科学は人間の意志の力に完敗。ま、プラシーボ効果は、意思の力というより、思い込みの力で成り立つものだけど、やはり、広告宣伝費を削るわけにはいかないようね」

それが、この実験の結果を見届けた上での、グラード財団総帥の決定だった。
「薬を飲むからには、治りたいという気持ちがあるはずよ。でも、そう簡単に治るはずがないという不信感があれば、その効果も半減する。人の心から疑いの気持ちを取り払うための研究も必要かもしれないわね」

「瞬と氷河はそんなことのために、こんな目に──」
「そんなこととは聞き捨てならないわね。これは、グラード財団の今期の医薬部門・数百億の予算の配分を決める、大事な実験だったのよ!」
「だからと言って、こんな、氷河と瞬の気持ちを弄ぶような真似を──」
「あら、私は、氷河と瞬がいたからこそ、この実験を思いついたのよ? これで、今まで散々私たちをやきもきさせてくれていた氷河と瞬も、落ち着くべきところに落ち着くことになるでしょうし、今期の予算の配分も、それぞれの担当者が納得いくように決められることになって、一石二鳥。私は、本当に、賢明かつ優しい権力者だわ」

「…………」
この優しい・・・権力者の言葉を、瞬に聞かせてやりたい──と、紫龍は思ったのである。
しかし、それはできない相談だった。
ただの塩入りウーロン茶のせいで、自分があんな痴態を晒したことを知ったら、それこそ瞬は世を儚みかねない。
沙織を人権侵害の罪で告発することはできそうになかった。

「本当に興味深い実験結果だったわ。小宇宙や、星矢のお得意の奇跡の正体も、本当は聖闘士に限らず誰もが持っている人間の意思の力──いいえ、思い込みの力なのかもしれないわね。興味深いことだわ。人間の精神や感情の力が持つ無限の可能性を感じるわ……!」

感動したようにそう言って、しみじみ頷いてみせるアテナの姿に、星矢と紫龍は、神の悪意の無限の可能性をひしひしと感じていた。






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