『それは違う』 ハーデスは、それが、自分が支配しているはずのものの唇から発せられた声だということに気付いて、些少でない驚愕に見舞われた。 ほとんど完全に抑え込んでいると信じていた瞬の身体と精神とが、ハーデスに対して──それも、今になって──反乱を起こし始めた──のだ。 その声が、ハーデスを無視して、彼と対峙している氷河に向かい訴える。 『いや……! もういや、氷河。僕はこれ以上は耐えられない……っ!』 ハーデスを押しのけて瞬の唇から発せられるものは、瞬の声と瞬の言葉だった。 「これが限界か。こういうのをロシア語でソストラダーニエというんだ。よく我慢したな」 ハーデスとは対照的に、氷河はまるで驚きを見せない。 剥きだしになっていた瞬の肩を例の大仰な長衣で覆い、瞬の裸身を隠す氷河に、ハーデスは憎悪と厳責の表情を氷河に向けた。──そうしたつもりだったのだが、彼は自分がそうすることに成功したのかどうかもわからなかった。 瞬の中の己れの支配力が急激に衰えていくことに、彼は動揺していた。 氷河が、まだ瞬の中にいるハーデスに向かって言う。 「あいにく俺たちは、本能なんて愉快なもので こんなことをしているわけじゃない」 「なに?」 「俺がこんなことをできるのは、瞬だけなんでな。俺も瞬同様、瞬が相手じゃないと勃ちもしない──浮気もできない小心者なせいで試したこともないが」 「余はそなたの瞬ではないぞ。そなたはそれを知っていて、ただの欲望から……。何が 『僕は僕で、あなたじゃない。あなたも氷河じゃない』 瞬の唇が発するハーデスの言葉を、瞬の言葉が遮る。 「そなたを抱いているのは、氷河ではなく余だ。氷河を受け入れてやっていたのも、そなたではなく余だ」 一人の人間の唇が対立し、言い争っている。 氷河は瞬の右の手を強く握りしめていた。 この身体を統べているものは瞬だと信じきっているように。 それは、そして、事実になりかけていた。 『違うよ』 瞬の唇が、無造作にハーデスの言を否定してのける。 氷河はそんな瞬に微笑を向けて、軽く頷いた。 「アテナも星矢たちもエリシオンに辿り着いたようだし、この状況に甘んじているのも、そろそろ限界だ。余計なものを介在させてのセックスなど、もううんざりだ。瞬も――これ以上は耐えられないと言っているし、俺は瞬には優しい男なんでな」 「そなたが優しい男だと !? 自身を偽るのもいい加減にしろ! そなたの中にあるのは際限のない欲望と暴力的な独占欲と──」 噛みつくようなハーデスの非難を、氷河は否定しなかった。 「それを否定するつもりはないが──とにかく、俺が愛しているのは瞬だ。おまえじゃない」 『僕が好きなのは氷河だよ。あなたじゃない』 代わりに二人は、ハーデスを否定した。 「邪魔だから、消えろ」 『邪魔だから、どいて』 二人にそう言われた時、ハーデスは、確かに その痛みを奇異に思う間もなく、あろうことか彼は、虫けら以下と蔑んでいた人間の意思によって瞬の身体の中から弾き飛ばされてしまったのである。 二人の外から二人を見ている自分に気付き、ハーデスは愕然とした。 「氷河……氷河……!」 瞬が、瞬の意思と瞬の声で氷河の名を呼んで白鳥座の聖闘士の胸にしがみついていき、氷河が瞬の身体と心とを抱きとめる。 『離れろ!』 実体を有していないハーデスの怒声に、だが、瞬は臆した様子も見せずに歯向かった。 最初に一人でハーデスの前に立った時、その力に怯え圧倒されていた人間と同じ人間とは思えぬほどに力強い意思をみなぎらせて。 「僕はあなたになんか命令されたくないの。神との合一なんて、僕は望んでないし、受け入れる気もない。僕は、僕として、氷河を愛することと氷河に愛されることを望んでるの」 「俺も同じく」 そう言って瞬の肩を抱き寄せる氷河は、既にハーデスの存在を 彼の青い瞳には、ただ彼の恋人の姿だけが映っている。 それが、ハーデスの怒りに拍車をかけた。 |