『そんな自己中心的な狭い考えが、アテナの標榜する愛か。それが人間の――』
信じられない力──神のそれを凌駕する力──を持つ人間の存在を認めてしまわないために、ハーデスは氷河と瞬に食い下がろうとした。
自己中心的だなどという非難を 人類の滅亡を企てた神にだけは受けたくないと言わんばかりに、氷河と瞬が、そんなハーデスに反駁する。

「氷河を愛してるから、氷河の幸せが何なのかを知っていて、それを望むから、僕は他の人の幸福も望めるの」
「瞬がそれを望むから、他の者の平穏を願えるんだ」
「人って、そういうものでしょう」
「人間というのはそういうふうにできている」
「あなたは誰を愛してるの」
「おまえは誰に愛されているんだ」

『余は──』
ハーデスは、その“心”に恐慌をきたし始めていた。
なぜそんなことを問われるのか、そんなことが それほど重要なことなのか──が、ハーデスにはどうしても理解できなかった。
問われたことへの答えが見つからない苛立ち、たかが人間に神の意思が弾き飛ばされてしまったことへの驚愕、それ以上に、そんなものは欲していない、必要ではないと言い切ってしまえない自分自身のために、彼は混乱していた。

それ・・を欲していなかったのなら──少なくとも、興味を抱いていなかったなら、彼はこの遊戯をしてはいなかったはずなのだ。
本当なら彼は、延々とこの二人の人間をいたぶるようなことをする必要はなかった。
そんなことをしなくてもハーデスは瞬を支配することはできてたし、むしろその方が合理的だったのだから。

ハーデスにその遊戯を余儀なくさせたのは、自分には持ちえないものを手にしている者たちへの憎悪だったのかもしれない。
逆に、切望だったのかもしれない。

氷河になって瞬に愛されてる錯覚、瞬になって氷河に愛されている錯覚──に、ハーデスは酔っていた。
その一方で、彼は、二人を弄ぶことのできる自分を自覚し、弄ばれている人間を見くだし、人間が後生大事に語ってみせる“愛”に勝ったつもりでいたのだ。

ハーデスが愛しているのは自分自身だけだった。
否、彼は、自分が自分を愛しているという確信さえ持っていなかった。
だから、彼はこの無駄な遊戯をした。
せずにいられなかったのである。
ハーデスは、その錯覚の中に身を置くことで、人間たちの言う愛を体験しているつもりになっていた。
我が手に掌握しているつもりになっていた。

しかし、錯覚は錯覚に過ぎず、事実ではない。
それはハーデスのものになってはいない。
強大な力を持つ神が、唯一自分ひとりの力では手に入れることのできないもの。
それを、この二人の人間は持っていた。

無力な二人の人間に対して、己れが抱いていた感情が羨望だったと気付いた時、ハーデスは、この傲慢な二人の人間を消し去ることを決意した。
この二人だけでなく、すべての人間を消し去ることを、改めて決意した。
神である自分が手にし得ないものを持っている存在を、彼は許すことができなかったから。
そんな存在が存在し続ける限り、自分はみじめなものであり続ける。
そんな事態を、彼は受け入れられなかった。

だから彼は、彼の真実の力を振るうために、彼の本来の肉体が眠る場所に向かったのだった。





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