「氷河……?」
ふいに自分の背にまわった氷河の腕に当惑して、瞬は彼の名を呼んだ。
知りたいこととは別の、それでいて全く無関係でもない答えが、氷河から返ってくる。
「明日も生きていられるとは限らないからな」
戸惑いつつも、瞬は、氷河が何を言わんとしているのかはわかるような気がした。

氷河の言う通りに、時間は無限ではない。
この ひと時がかけがえのないものであることは、瞬にもわかっていた。
時が無限にあるという思い込みと油断は、時に人を不幸にしかねないことも、瞬は知っていた。

それは知っていたのである。
だが、瞬は、ほとんど なぎ倒されるようにして、我が身が傍らのベッドの上に押しつけられたことに混乱せずにはいられなかった。
「氷河、これは何の冗談――氷河」
氷河が無言で、瞬が身に着けているもののボタンを引きちぎる。
瞬は、自らの胸が外気に触れる感触に驚き、一度 大きく身体を震わせた。
氷河が何をしようとしているのかは、考えるまでもないことだった。

晴天の霹靂――と思ったわけではない。
あり得ることだと思っていた。
いつかは――否、今夜にでも。
だが、それは、こんなふうに行なわれてはならないはずのことだった。

瞬は身をよじって、氷河の手から逃れようとした。
本気で逃げようとしたわけではない。
氷河に何か――何か言葉をもらえたなら、この身を彼の腕に委ねてもいいと、瞬は思っていた。
氷河は、自分をその意に従えさせるための言葉を持っている。
氷河だけが、その言葉を言うことができるのだから。

どんな言葉を告げれば、瞬の心身に自分を受け入れさせることができるのかを知っているはずの氷河は、しかし、瞬に何も言おうとはしなかった。
瞬は、この状況が根本的におかしいと初めて認識し、氷河の表情を確かめようとしたのである。
自分と瞬の間にあるものをすべて取り除こうとしている氷河は、その視線だけは瞬の顔に据えたままだった。
瞬を凝視する氷河の目は、その青い瞳が血のような赤でにごっていた。
その瞳を見た瞬間に、瞬は気付いたのである。
これは氷河ではない。
それは、理性による判断ではなく直感だった。

「氷河、いったいどうしたの。何があったの、こんなこと、やめて!」
「おとなしくしろ」
氷河が初めて口を開く。
彼の唇が発する言葉は、瞬が見知っている氷河の言葉ではなかった。
――これは氷河ではない。

瞬は、本気で彼の手から逃れようとした。
その体重で瞬の動きを封じようとする氷河の胸を押しやろうとして伸ばされた瞬の腕が、鬱陶しそうな顔になった氷河によって、乱暴に払いのけられる。
彼は、そして、反抗的な瞬の手首を、握りつぶそうとしているとしか思えないほどの力で掴みあげた。
「や……やだっ。氷河、どうしてこんなことするのっ」
「おまえが欲しいからだ」

氷河からの返事は、その声音は、実に淡々としたものだった。
こんな無体なことをしようとしている人間が、こんなふうに落ち着いていていいものかと思うほどに、彼は冷淡だった。
そして、氷河がそんな一方的な理由でこんな暴力に及ぶことなどありえない――と、瞬は思った。
だというのに、それは氷河の姿をしている。
だが、絶対にこれは氷河ではない。氷河であるはずがないのだ。
氷河なら、今 彼が組み敷いている相手が聖闘士であることを知らないわけがない。

瞬は、氷河の周囲の空気を使って、彼の動きを封じようとした。
だが。
だが、瞬の意のままになるはずだったそれは、どういう力が働いているのか、瞬の意思に従わなかった。
それどころか、それらは氷河の味方につき、逆に瞬の身体の自由を奪おうとして、瞬にのしかかってきたのである。






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