パチパチパチ、とはるか遠くのほうから拍手が聞こえた。
 だが実際は安藤のすぐ隣で、さっきからまるで表情を変えないままだが、氷河が拍手していたのだ。
「ばかにしないでください。」
 安藤は熱弁を振るってしまった反動で、恥ずかしさに舌がふるえていた。
 だが氷河は手をあわせるのを素直にやめ、安藤に意外なことを言った。
「誤解しないでくれ。あんたは想像していたより、ずっとわかっているんだと思ってな。さっきは失礼なことをした。あんたのほうがずっと雄弁にあの『人』の良さを説明してくれたよ。」
 俺ならこれを「天使」とは呼ばないがね、と氷河は薄く笑った。
 なぜなら、と氷河は腕組みをして壁のほうへと歩み寄った。
「俺は、『人』とそっくりな生身の人間を知っているから。」
 氷河はガラスの額縁をそっとなでた。
「見た瞬間、これこそ、その人物にプレゼントすべきだと思い込んでしまってな。そいつの誕生日が近いもんで、あせっていたんだ。」
 氷河は口ほどにあせっているようにはまったく見えなかった。しかし、氷河の言葉になおも鼻白む安藤は、大事なことに一瞬遅れてからふと気が付いた。
「『人』にそっくりな人間がいる?」
「事実だ。別に隠すわけじゃないが・・・それ以上は、あんたほどに巧みに語ることはできないな。
 さっきの『人』の解釈どおりだと俺は思っているが。
 俺には生身の『人』、あんたにはそこの芸術品。公平じゃないがそれで我慢してくれ。」
「え? 今、なんておっしゃいました、あれはあなたが買ったはず・・・」
「だから、あんたの『人』の講釈を聞いて、これなら譲ってやってもいいと思ったんだよ。退職金を全額つぎこんでも、これを買いたいと思ったんだろう?」
「なんでそれをご存知で?」
 この若い男は金持ちであるだけでなく、千里眼なのか、と仰天のあまり安藤は声が裏返ってしまった。
「無駄な労力は払わない主義でね。種明かしをすれば、まず、そんなに都合よく『人』を銀座のショーウィンドウで見かけることができるわけがない。ここ丸一年、プレゼントになるようなものを探していたのさ。これを見つけてからは我ながら手際が良かった。
 レンタルが終わり、年に一度の品質管理のために昨日この画廊に『人』は戻ってきた。そのはずだ。」
「ええ、運び込まれて、メンテナンスの必要があるかどうかをチェックするはずでした。今朝やっと梱包を解いたんです・・・。」
 亜佐美が氷河の言葉を裏付けした。
「和光にここを紹介された、というのも嘘だ。『人』を気に入っているのは俺だけじゃなかった。どこだと思う? ポンピドゥ・センターさ。」
「あ・・・あの近現代のポンピドゥが?」
「ああ。パリのセンターに行ってみた事があるが、さずがだった。スタッフも設備も優秀だし、あそこが目をつけた美術品だったら、門外に流出することはまずないだろう。」
 あまりの急展開に安藤はついていけず、いつもの癖でふるふると頭を振った。ふと横を向くと、亜佐美はもっとわけがわからないといった顔でぽかんと口を開けている。
 安藤はかろうじて脳みそをふりしぼったが、たいした考えは浮かんでこなかった。
「ポンピドゥに買われたらもう二度と個人所有はできない、だから先手を打ったってことですか?」
「それだけじゃない。和光の広報に目端のきくやつがいて、自分もうまい汁を吸おうと思ったらしい。この画廊の経営が苦しいことをいいことに、今度は年単位のレンタルではなく、安価で和光に売却するよう持ちかける機会をうかがっている。自分の持ち物になったらポンピドゥに転売して大もうけ。そんな筋書きを考えていたんだろう。
 『人』を買い付けたのはそこいらの美術部長だった、ってことも調べさせてもらった。しかもこの部長はリストラされてあと数日の命だ。ポンピドゥが動く前に、なんらかの手を打つとはとうてい考えられない。」
 たしかに氷河のいうとおりだった。安藤は身辺整理にいそがしく、○○画廊のことや『人』のことなどすっかり忘れてしまっていた。
「オーナーが行方不明となれば、従業員は俺の話を吟味もせずに飛びついてくると読んだ。おかげで信じられないほどすんなりと契約までこぎつけたんだが・・・」
 氷河は笑っていた。ほんのわずか、あの深い青色の瞳にちらっと楽しんでいるような表情がよぎっただけだったが。
「かの部長さんが居合わせるとは誤算だった。それにこんなに優秀だったとは。」

「それに俺としたことが、すっかり失念していた。あいつは―――この『人』を贈ろうと思っていた人物だが―――どんなに素晴らしいモノよりも、ハッピーエンドで終わる話のほうを喜ぶってことを。
 だから、俺が『人』を手放した顛末はハッピーエンドでなくてはならない。決まりだ。」
 氷河は今度こそにやっと唇をゆがめて笑った。
「『人』は安藤さん、あんたに譲るよ。退職金は再出発の資金にでもすればいい。なんならこの画廊を建て直してみたらどうだ。そのうち景気も上向いてくるだろうし。」
 氷河はソファに腰掛け,無責任なことを平然と言い放った。そして彼が無造作に投げてよこしたものは、さっき亜佐美が丹念にファイルした『人』の権利書。
「ま、待ってください、こんなことをしていただくわけには・・・」
「礼をいうなら『人』に言ってくれ。そいつは無理に手に入れたら壊れてしまう、厄介な代物だよ。
 どうしてもというのなら、さっき控えていた住所に花でも贈ってくれ。九月九日に、だ。」
 さっさと立ち上がり、ソファをまたぎ越して氷河はもう扉に手を掛けていた。
 体半分外に出てから、彼はふと思いついたというように振り返り、まだ呆然としている二人にこう言った。
「ところで、歌舞伎座の近所にうまい甘味処はあるか?」
 安藤はとっさに自分の勤めていた百貨店の地下の店を教えてやった。
 手間をかけさせた、というぶっきらぼうな声がして、もう次の瞬間には氷河の姿は見えなくなっていた。