氷河が船室を出ると、既に空では幾つかの星たちが瞬き始めていました。
風は、コーンウォールに向かって吹いています。

その風に乗って、つい先程、氷河を馬鹿にしまくってくれた侍女の声が、氷河の許に届けられました。
声のした方に氷河が視線を巡らしますと、瞬と瞬の侍女が、まるで故国を懐かしむように、船尾に立って海の彼方を見詰めていました。


侍女の言葉は、先程までと打って変わって、氷河に同調したものでした。
「彼の言うことは正論です。今からでも――彼は、頼めば、船をアイルランドに戻してくれると思いますよ、瞬様」

瞬が、彼女の勧めに横に首を振ります。
「でも、それでは戦はなくならないよ。僕が心を殺して、コーンウォールの王にもそうしてもらえば、両国の間には平和がもたらされる。コーンウォールの王には申し訳ないと思うけど、それも王家に生まれた者の務めだと……」

「幸せそうにしている瞬様を見るたびに、あの金髪の騎士は胸をいためることでしょう。私と同様に」
瞬が口にするロイヤル・デューティをそれ以上聞きたくなかったのでしょうか。
彼女は、瞬の言葉を遮るように言いました。

瞬は、彼女に向かって、力無い微笑を浮かべたようでした。
「……その時には、彼に忘れ薬を渡してやって。それから、おまえもね」

「――彼に、忘れられてしまってもよろしいのですか」
「え?」
瞬のその微笑をも、彼女は遮ってしまいました。

「戦場に咲く花を散らすまいとして、隙を見せるだなんて、よくもまあ、あの男、瞬様が心惹かれるような憎い芸当をしでかしてくれて……!」
褒めているというよりは、確かに憎んでいる口調です。
けれど、それは、その言葉の底に好意のようなものが横たわっているようにも取れる口調でした。

「コーンウォールにも優しい騎士がいるのだと思っただけで、薬を使わずに正気でいたなら、僕も彼も男だよ」

「では、瞬様は、薬の力に惑わされずに、あの愚かな者を好きになってしまったのだということになります」
まるで自分の主人を哀れむかのように、彼女は沈痛な面持ちで、そう告げました。

瞬は、すぐには彼女に答えを返さず、かなり長い間を置いてから、ぽつりと小さく呟きました。
「……これから、まやかしの世界に生きることになる人間に、ささやかな思い出のひとつくらいあってもいいじゃない」


アイルランドから吹く風に乗って届く瞬の寂しげな言葉が、氷河に決断をさせました。





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