城戸邸内で騒ぎが起こったのは、その日の夜である。 夕食の時刻になっても、氷河の姿が見えないというので、城戸邸に集められた子供たちの世話役をさせられている辰巳が、かんかんになって、瞬たちに当たり始めたのである。 だが、彼にいくら怒鳴りつけられても、氷河の行方を知る者は、邸内にはただの一人もいなかった。 「マーマとやらが恋しくて、出てっちまったんじゃねーのか?」 「ここにいる奴はみんな、親なんかないのになー」 「甘えてるんだよ、あいつ」 仲間たちが口を揃えて言うのを聞いて、瞬は、自分の中に湧き起こってくる不安を必死になって打ち消しながら、弱々しい声で彼等に頷いてみせた。 「そうだよね……みんな、そうなのにね……」 だからといって、氷河の身を心配せずにもいられない。 ここは、彼にとって、言葉も通じない、まさしく異国の地なのだ。 不安にかられて、瞬は、ふと、パンツのポケットから、氷河が残していったあの紙片を取り出した。 氷河がいなくなってから拾いあげたそれを、クズ籠に捨てることもできず、瞬はポケットに収めておいたのである。 瞬が、それを広げてみようとした時だった。 「そんなことねーよ! 氷河は、ここの生活に馴染もうとして、日本語覚えようとしてたし、俺たちみんなが親がいないこともわかってた!」 ――と、星矢が、仲間たちを大声で怒鳴りつけたのは。 「氷河は、うまくなってからじゃないと、みんなの前で話せないからって、俺に日本語教えてくれって言ったんだ! 字だって覚えようとしてた!」 「え?」 「瞬まで、みんなと一緒になって何だよ! 氷河は、瞬に下手な日本語聞かれたくないって言って頑張ってたのに!」 星矢の言葉は、瞬には寝耳に水だった。 身体を使っての喧嘩やスポーツならともかく、よりにもよって星矢を国語の教師に選ぶなど、それは、瞬でなくても無謀な話だと思っただろう。 星矢になら、下手な日本語を聞かれても構わない――という気持ちは、確かに、理解できないでもなかったが。 それはともかく。 瞬は、自分が氷河に嫌われ、避けられているのだと思っていた。 それが、それこそが、一人合点だったというのだろうか。 瞬は、星矢の話を聞かされて、何が何だかわからなくなってしまったのである。 「氷河は、瞬の靴が他の奴等に踏まれないようにって脇によけてやったり、タオルが他の奴等のに紛れたりしないようにしてやってたじゃん。氷河は瞬のこと、すごく好きだったのに、瞬までそんなこと言うなんて、どうしちまったんだよ!」 「あ……」 同一の行為が、見る者の視点の据え方で、これほどまでに違う。 星矢のように虚心に氷河の行動を見れば、それは確かに厚意以外の何ものでもないと思えるようなことだった。 瞬も――最初はそうだったのである。 そうだったのに――と、瞬は、唇を噛みしめた。 「夕べだって、明日渡すんだって言って、氷河の奴、一生懸命瞬への手紙書いてたんだぜ!氷河は、甘えたりなんかしてねーよ。瞬がここにいるのに、氷河がマーマ恋しさで家出なんかするはずもない! 何かあったんだよ、誘拐とか事故とか!」 星矢が、真っ赤になって、仲間たちを怒鳴りつける。 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、城戸邸には、瞬の大きな泣き声が響いていた。 「うわあぁぁぁん !! 」 瞬の手には、氷河が瞬に渡そうとしたあの紙片があった。 おそらく、星矢に示された手本を必死に真似て書いたのだろう。丁寧に4つに畳まれたその白い紙には、どうしようもなく下手くそな文字で、『ありがとう』という言葉が綴られていた。 蛇が腸捻転を起こしたようなその文字を見た途端、瞬は、自分が氷河に何をしてしまったのかを、初めて切実な思いで理解したのだった。 「瞬 !? 」 「な……なんだよ、俺は別に泣かそうなんて思って言ったわけじゃ……泣くなよ!」 瞬の兄や星矢が、突然火がついたように泣き出した瞬に慌てて、懸命になだめにかかったが、瞬の号泣は止まなかった。 それでどうなるものでもないとわかっていても、瞬は泣かずにいられなかったのである。 氷河は人間だったのに、自分と同じ心を持った人間だったのに、綺麗な人形で遊ぶような浮かれた気持ちで世話をやき、そして、他人にその人形を『可愛くない』と言われて、放り投げた――。 自分のしたことは、そういうことだったのだと、瞬は初めて気付いた。 だというのに、その人形――人間――に、瞬は、『ありがとう』と言われてしまったのである。 瞬は、泣かずにはいられなかった。 「ど……どうしよう……氷河、ここ出ていっちゃった……! 僕がひどいことしたから! 僕が馬鹿だったから……! 僕が馬鹿だったのに、僕が悪いのに、なのに氷河が死んじゃったら、僕……僕……うわぁーん!」 優しさから親切にしてくれているのだと思っていた相手に、冷たい態度をとられてしまった氷河が、自分の仕打ちにどれほど傷付いたのか。 氷河の気持ちを思うと、瞬に紙片を突き返された時の氷河の青い瞳を思い出すと、そして、今、氷河がどうしているのかを思うと、瞬は悲しくて怖くて辛くてならなかった。 兄や仲間たちがどれほど慰めてもなだめても、瞬の号泣は止まらず、瞬は実際、声が出なくなるまで泣き続けたのである。 泣きながら、瞬は、氷河を捜し始めた。 |