やっと落ち着きを取り戻したらしい瞬を見おろして、氷河が苦笑する。 「シビュラの巫女が──」 「え?」 ふいに耳慣れない言葉を聞かされて、瞬は、自分の前に立つ氷河を上目使いに見あげた。 その視線を捉えて、氷河が言葉を続ける。 「太陽神アポロンに、愛人になってくれたらどんな望みでも叶えてやろうと言われたシビュラの巫女がな、一山の砂の数だけの年数長生きできるようにと願ったんだ」 「長生き?」 氷河は自分に、そういうものが一般的かつ常識的な“願い事”なのだと教え諭そうとしているのかと思って、瞬は奇妙な気分になった。 瞬には、“長生き”などという願い事は、氷河の普段の言動とは相容れないもののような気がしたのである。 が、氷河はそんなことを言いたいわけではないらしかった。 「その願いは叶えられたんだが、彼女は永遠の若さを願わなかったんで、砂の数だけ老いながら生き続けることになった。おまえも、彼女と同じドジを踏んだわけだ。人類の幸せだけを願って、その永続を願い損ねた。ま、結果的には、おまえが迂闊でよかったわけだがな。そもそも、幸せなんてものは、自分の手で掴んでこそ価値のあるものだろう」 要するに氷河は、今の瞬と同じ過ちを犯した人間がかつて他にも存在した――ということを言いたいらしい。 おそらく、氷河は自分を慰めようとしてくれているのだと、瞬は、氷河の話を好意的に受けとめることにした。 「そういうものなのかな……。僕は、僕以外の人に幸福をもらうことが多いんだけど」 瞬は、たとえば、氷河が楽しそうに笑っていてくれたら、それだけで幸福になれる人間だった。 むしろ、そういうことで幸せになることの方が多かったのである。 「人にはそういう部分もあるだろうが、自分の幸せのすべてを他人に依存していたら、それも問題だろう。少なくとも、俺は、自分が幸せになるかどうかくらいのことくらいは、俺の好きにさせてほしいと思うぞ。他人に、無理矢理幸せにしてもらおうとは思わない」 「…………」 “依存”、“無理矢理”――氷河が言うそれらの言葉は、かなりの部分で、瞬にとっての“親切”や“愛情”と重なるものだった。 それは、一つの同じ行為を、視点を変えた見方ではあるのだろう。 瞬にとっては“親切”でも、それを迷惑と思う人間がいるだろうことは、瞬にもわかる。 それでも、瞬の幸せは、大抵、自分の内ではなく、外にあった。 瞬の戸惑いを見透かしたように、氷河が薄く、だが、暖かく微笑する。 「誰かが幸せでいることが、おまえにとっての幸せだというのなら、それは、おまえがおまえ自身の力で、自分を幸せにしているということだぞ。世の中、他人の幸せを自分の幸せだと思うことができない奴は多いからな。むしろ、妬む奴の方が多いだろう。他人の幸せを自分の幸せだと思うことができるのは、おまえが素直で――強いからだよ」 「でも、それは――」 それは、瞬には強さでも何でもなく、至極当然のことだった。 他人の幸福を妬んだところで、自分が幸せになれるわけではない。 それはむしろ、自分で自分を不幸にしているようなものである。 好んで自身を不幸にする人間の気持ちというものが、実は瞬にはよくわからなかった。 そして、瞬にはそんな人間の気持ちがわからない――ということを、氷河はわかっているようだった。 なぜかひどく嬉しそうに、彼は自分の顎をしゃくってみせた。 「とにかく、自分の願いは自分で叶えなければ意味がないだろう。俺は、俺を俺自身の手で幸せにするために生きているんだ。それは、俺に任せておけばいい」 氷河の、子供をなだめるように穏やかな口調は、だが、かえって瞬をいたたまれない気分にさせたのである。 瞬が氷河に向けた切なげな視線を、氷河が苦く受けとめる。 「誰だってそうだろう。誰かに自分を幸せにしてもらおうなんて考えてる奴はいないさ。もし、そんなことを考えている奴がいたら、それこそ、おまえが幸せにしてやる価値もない奴だ」 「氷河……」 「人間って奴は、自分にとっての本当の幸せが何なのかもわかっていないことが多い生き物だ。まして、他人の幸せが何なのかなんて、誰にもわかりはしないし、おまえが良かれと思ってしたことが、いい結果を生むとは限らない。放っておくのがいちばんいいんだ。幸せになりたい奴は、自分で自分をどうにかするさ」 思いがけず冷たい氷河の言葉に、瞬は、呆然としてしまったのである。 氷河の言うことはわからないではない。 だが、それでは、人は自分以外の誰かのために、何をしてやることもできないではないか。氷河の言葉が真実だとしたら、人が誰かのために何かを為そうとすることは全て無意味な行為だということになってしまう。 「誤解するなよ。おまえが誰も幸せにできないと言ってるんじゃない。おまえが生きていてくれるだけで幸せになれる人間もいる。おまえに気遣ってもらっているんだということを知るだけで、感謝する人間も当然いるさ。だが、それは、そう思う人間が、自分でそう思うだけのことで、人には他人に幸せを強要する権利はないと言っているだけだ」 「…………」 人は確かに、自分の価値観で幸せだと思う幸せをしか、人に与えられないものだろう。 実際、瞬は、それをしようとしたのだ。 小人たちにもらった願いを願うことで。 そして、それは見事に裏目に出たのである。 瞬は、唇を噛みしめた。 |