「僕は……ずっと、氷河を見てた」

実体のない瞬は、悲しそうな目をして、氷河を見詰めていた。

「十何年間……ずっと見てた。氷河が僕のことを忘れて、他の誰かと出会って、そして幸せになってくれるのを──」
「……瞬」

これは、いったい、何歳の瞬なのだろう――?

「ずっと待っていたんだ……」

いつもまっすぐに氷河を見詰めていた16歳の瞬とは違う。
氷河の視界に映る姿はあの時のままだったが、実体のない瞬の瞳は、氷河の倍も歳を重ねた人間のそれにも思えた。

やがて――これは、“今”の瞬なのだと、氷河にはわかった。


「瞬……」
では自分は、星矢が言っていたように、もう十数年間も瞬を悲しませ続けていたのだろうか。自分自身にもどうすることもできない、この思いのせいで?
――そんなことを考えながら、氷河は、ベッドの上に身体を起こした。

不思議なことに、氷河は、自分の目の前に幻影のような瞬がいることを奇怪なこととは思わなかった。
奇跡だとも――思わなかった。

「でも、氷河はいつまでも、死んだ者に囚われていて……」

「俺はしつこいんだ」
「そうみたい。だから」
「だから?」

だから、瞬は、こんな奇跡を起こしてみせたというのだろうか。
その意図を、氷河は理解しかねた。
氷河に、その恋人を忘れさせるためになら、瞬がしたことは逆の効果をしか生むものではない。

氷河の疑念を察したらしい瞬が、瞼を伏せて、氷河に尋ねてきた。
「シンデレラの王子様がシンデレラを追いかけた訳を知ってる?」
「惚れたからだろう」

氷河の返した、至極ありふれた解釈に、瞬が首を横に振る。
「シンデレラが逃げたからだよ。王子の手から。自分のものにならないものを――だから、王子は追いかけた」
「瞬、何が言いたいんだ」

まわりくどい瞬の説明に、少しばかり焦れを覚えて、氷河は瞬に問い質した。
瞬が、今にも消えてしまいそうな笑みを、氷河に向けてくる。

「恋を終わらせるいちばん確実な方法は、その恋を満たしてしまうことなんだって」
「恋を満たす?」

「僕たちは……ずっと仲間として過ごしてきた。それはそれで、信頼し合って、一緒にいられて、同じものに命を懸けて、充実していた――と思う。でも、恋人として過ごしたのはただ一夜だけだったから――」

瞬が僅かに頬を染めた――ように、氷河には見えた。

「だから、過去の氷河が、心も身体も飽和するくらい、飽きるくらい、食傷するくらい、僕との恋を楽しんで満ち足りて――そうすれば、氷河は満足して、僕を忘れてくれるかと思ったんだ。そのために、たくさん恋に時間を費やさせるために、僕は、過去の自分を氷河のところに連れてくることにしたの」

「僕が自由にできるのは、僕が存在する“今”と、僕自身だけだから……過去の僕を氷河に会わせて、氷河を印象づけて、氷河が自分にとって特別な人なんだと知らせてあげて、恋の気持ちを煽ってやれば、僕はもっと早くに氷河に自分の気持ちを打ち明けて、もっとたくさん愛し合う時間ができて、そうしたら――」

「俺がおまえとの恋を楽しみ尽くしたあげく、満足して、飽きると思ったのか」
氷河が問うと、まるで項垂れるように、瞬は頷いた。

「しかし、夕べのおまえは――」
瞬の目的が、過去の自分たちに恋を満たす時間を与えるためだったというのなら、死ぬ直前の瞬を連れてきても、それは無意味である。
氷河の疑いは、当然と言えば当然の疑いだった。

「僕は――過去がどうしても変わらなくて、今の僕が何をしても、過去が変わらなくて、だから、過去の氷河じゃなく、今の氷河に、僕を飽きさせようと思ったの――ううん、違う……」
氷河の疑念への論理的な答えを、瞬はどうやら持ち合わせていないらしい。
「僕は、今の自分が氷河に何もしてあげられないから、代わりに過去の僕に……ごめんなさい、僕、自分で自分が何をしたいのか、何をしようとしたのか、今はもうわからない……」

どうしても思い通りにならない氷河と氷河の心に、瞬は半ば混乱させられているようだった。

それで、氷河は、やっと理解したのである。
“今”の瞬の眼差しが、大人のそれのように見えるのは、瞬が愛され続けることの苦しみを苦しみ続けたからで、それ以上でもそれ以下でもなく、瞬自身は、彼がその命を失った時からほとんど何も変化していないのだということを。
星矢が、十代の頃の価値観を、今も頑なに守り続けているように。






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