「おまえを忘れられない俺を、なぜ不幸だと思うんだ」
「だって、氷河はひとりぽっちで……」
「ひとりじゃない」
「だって、現実に……!」
「ひとりじゃない。おまえがいる。俺が死ぬ時まで、俺はおまえといる」

それは亡き者を思い続ける男の常套句でも綺麗事でもない。
氷河にとっては、それが――それこそが、変えることのできない現実だった。

「だから、もうやめろ。過去の自分や俺を変えようとするのは」

激情にかられて、瞬を抱くべきではなかったのだ――と、氷河は、今になって昨夜の自分を“後悔”していた。

過去の瞬には、過去の瞬を愛している過去の自分がいて、今の自分が愛しているのは、今の瞬――瞬が生きていた16年間と、死んでしまってからの十数年間を、その胸に内在させている“今”の瞬――だった。
今の氷河が愛しているのは、16歳の頃の瞬ではなく、今、氷河の前で、実体のない我が身を嘆き項垂れている、哀れで悲しげな瞬なのだ。

「ずっと、俺を見ていてくれたのか?」
今の氷河が愛しているのは、
「なら、わかるだろう? 俺が不幸なはずがないじゃないか。俺には、おまえを愛した記憶があって、おまえに愛された記憶があって、そして、今も俺はおまえを愛している。おまけに、今も愛されているようだ」
死してなお、生きている者を思い続けていてくれる“今”の瞬だった。

「俺がおまえを思う気持ちは、満ちれば終わるものじゃない。永遠に広がっていくものなんだ」

「でも、僕は氷河に何もしてあげられない」
「おまえが俺に何をしてくれているのか、それを感じるのは俺の心で、おまえじゃない」
「氷河……」

「その心が消えることはない」
氷河はきっぱりと、“今”の瞬に告げた。

瞬を思う自分の心を、消そうとしても消せないことはわかっていた。
だからこそ氷河は、その心を消そうともせずに、これまで生きてきたのだ。

「俺は執念深いからな」
そんな自分に苦笑する。

「これからも、多分、そんなふうに生きていく」
氷河は、そういう自分を時に後悔することはあっても、不幸だと思ったことは、ただの一度もなかった。

「それが俺にとっての幸福なんだから、おまえにだって、それをどうこうする権利はないんだぞ、瞬」
「氷河――」

「俺は、幸せな男なんだ。幸せでないはずがないだろう。こんなにも、おまえに――いや、俺が幸せなのは、おまえに愛されているからじゃない。おまえを愛しているからだな」

そう言ってから、氷河は、彼の言葉に説得されかけている瞬に、もう一度、その手を伸ばした。
氷河の指先は、しかし、瞬に触れることはできなかった。
「“今”のおまえには、触れることもできないのか……?」

頷くことさえできずに、“今”の瞬が悲しげに氷河を見詰める。
氷河は、しかし、それでもすぐに瞬に微笑を向けた。
そして、優しく心弱い恋人に、氷河は囁いた。

「触れ合えないのに、溶け合っているな」
「…………」

それが自分の幸福なのだと知らせるために、氷河は触れることのできない瞬を抱きしめた。今は“思い”しかない瞬という存在が、生きている者の心に包み込まれる。

氷河は、その心地良い抱擁の中で、亡き人を思い続けた詩人の綴った詩を思い出していた。

亡き妻を求めて死の国へ下っていったオルフォイスに捧げられたソネットの一節――。

生の国と死の国の別が、愛する者を求める者の心にとって、どれほどの障壁になり得るだろう。
氷河にとって、それは、存在しないにも等しい程度の障壁でしかなかった。






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