ロシアの天才ヴァイオリニストの演奏は、前評判以上に素晴らしいものだった。
コンサートの後で入ったティーラウンジの席に着いてからも、瞬はしばらく夢心地で、その余韻に浸っていた。

瞬のその極上の気分を、彼の連れが途切れさせる。
「俺は、おまえのことをずっと──」

「え?」
「いや、おまえに言われたことをずっと考えていたんだがな。こういうことは、やはりはっきり言わないと通じないもんなんだろうか」

「…………」
あの素晴らしい演奏の間も、氷河の心を占めていたものはそのことだけだったのだろうかと思うと、瞬はひどく遣る瀬無い気分になった。
どうにかして氷河の恋を実らせてやりたいと、切なく思う。
思ってから、そう思う自分自身に、なぜか瞬の切なさは倍加した。

「紫龍と春麗さんみたいに、ずっと長いこと一緒にいたら、なんとなく好意を感じとれるようになることはあるんじゃないかな。でも、はっきり言ってもらえなかったら、それはただの錯覚か願望で、自惚れにすぎないかもしれないって不安になるだろうし、やっぱり、言葉で伝えることは大事だと思うけど……」

「そうか」
「氷河、どうして躊躇してるの」
考えてみれば――今更考えるまでもなく――それは実に氷河らしくないことである。

戦場に行けば、アテナの聖闘士は、その日のうちに命を落とすこともありえるのである。
そんな闘いの場にすら臆することなく向かう氷河が、なぜ、その人に、たった一言を告げることができずにいるのだろう。
命を失うかもしれない闘いに挑むことに比べたら、それは容易極まりないことではないか。

「まあ、俺の惚れた相手というのが、何と言うか、実に繊細な奴でな。急に好きだなんて打ち明けたら、俺を恐がって逃げ出してしまうんじゃないかと不安なわけだ」
瞬の疑念に、氷河は、薄い苦笑で答えてくれた。

「まさか」
「そのまさかがあり得るような奴なんだ」
「そ……うなんだ……」

おそらく、氷河が恋をした相手というのは、人を傷付けたことも、人に傷付けられたこともなく、そして、だからこそ傷付きやすい繊細な心の持ち主なのだろう。

人を傷付けたことも、人に傷付けられたこともない人間――。
瞬は、その少女を、心底から羨ましいと思った。
そして、できれば、その少女に氷河を傷付けてほしくない――とも。

「そんなデリケートな人なら、氷河、うんと優しくしてあげなくちゃ」
「無論、そうするつもりだが、それもこれも好きだと言ってからの話だしな」
「そんなふうな人なのなら、あんまり仰々しくしないで、なるべく自然にさらっと伝えた方がいいかもしれないね」
「それができたら苦労はしない」

苦労を――おそらく、『好きだ』と告げる前の気苦労を――、氷河はたった今、嫌というほど味わっているのだろう。
彼を励ますために、瞬は、意識して明るい笑顔を作った。

「僕、誰かに好きだって言われて、それを喜ばない人は滅多にいないと思う。それで嫌われることはないんだから、さりげなくでも、一度、ちゃんと言ってみようよ。ね?」
「そうだな」
「そうだよ。氷河、自信持って!」
「ああ」
あまり気乗りしていない様子で、だが、それでも氷河が頷く。

白いティーカップの中の液体に映る瞬の笑顔は、小さなさざ波に揺れて、微かに歪んでいた。






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